「エクトル・ベルリオーズ」の版間の差分

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パリ音楽院管弦楽団の1828年演奏会記録をもとに、1828年の行動を修正(うまく直せたかな?)
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[[1827年]]からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。
 
[[1828年]]の[[3月]]、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回の[[パリ音楽院管弦楽団]]定期演奏会で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]を、また同年に[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番『運命』]]を聴いて、大きな啓示を受ける<ref>[http://hector.ucdavis.edu/SdC/Programs/Pr001.htm パリ音楽院管弦楽団1828年演奏会記録]</ref>。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。
 
[[1829年]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト]]』(ジェラール・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『[[クレオパトラの死(カンタータ)|クレオパトラの死]]』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買われ、受賞を果たすことが出来ずに終わる。
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教育的な著作である『管弦楽法』(''Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes'', [[1844年]]、[[1855年]]補訂)によって、ベルリオーズは[[管弦楽法]]の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書は[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]によって詳細に研究され、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]によって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮した[[モスクワ]]や[[サンクトペテルブルク]]の音楽会に通い詰めていた。[[ノーマン・レブレヒト]]は次のように述べている。
<blockquote>「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹した[[パラダイム]]は、ベルリオーズにあった。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]は、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の[[交響曲第3番 (チャイコフスキー)|交響曲第3番]]を創り出した。[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]は死の床にベルリオーズの論文を置いていた」[<ref>http://www.scena.org/columns/lebrecht/031210-NL-Berlioz.html]</ref></blockquote>
 
また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家である[[ドミトリー・ボルトニャンスキー]]を高く評価した<ref>「稀に見る名技、ニュアンスの絶妙な組み合わせ、ハーモニーの響き良さ、そして全く驚くべきことだが奔放な声部配置であり、最後に挙げた特徴は(中略)イタリア人が遵守していた全規則の見事な無視である」(ベルリオーズの言葉を抜粋:コンスタンチン・P. コワリョフ著、ウサミ ナオキ訳『ロシア音楽の原点―ボルトニャンスキーの生涯』新読書社 ISBN 978-4788061057)</ref>。
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* {{IMSLP|id=Berlioz, Hector|cname=エクトル・ベルリオーズ}}
* [http://www.classiccat.net/berlioz_h/index.htm Classic Cat - Berlioz mp3s]
* [http://hector.ucdavis.edu/SdC/Programs/Pr001.htm]パリ音楽院管弦楽団1828年演奏会記録
 
{{Normdaten}}