「直江兼続」の版間の差分

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=== 直江家相続 ===
謙信急死後の[[天正]]6年([[1578年]])謙信急死後に起こった上杉家後継者争い「[[御館の乱|御館の乱」]]ではが収束し父・兼豊と共に景勝方に就いた。戦後処理が行われる天正8年(1580年)8月から、景勝への[[取次]]役など側近としての活動が資料で確認され、同年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[9月23日]])には景勝印判状の奏者を務めている<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)27頁</ref>。
 
天正9年([[1581年]])に、景勝の側近である[[直江信綱]]と[[山崎秀仙]]が、[[毛利秀広]]に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、[[直江景綱]]の娘で信綱の妻であった[[お船の方|船]]の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後[[与板城 (戦国時代)|与板城]]主となる。以後、上杉家は兼続と[[狩野秀治]]の2人の執政体制に入る<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)31-32頁</ref>。