「本多政勝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''本多 政勝'''(ほんだ まさかつ、[[1614年]]([[慶長]]19年) - [[1671年]][[12月1日]]([[寛文]]11年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]))は[[大和国]][[郡山藩]]の初代藩主。父は[[本多忠勝]]の次男・[[本多忠朝]]。官位は従四位下。内記、侍従。
 
幼名は入道丸。[[1615年]]、父の忠朝が[[大坂夏の陣]]で戦死したときはまだ2歳だったため、父の兄に当たる[[本多忠政]]の次男 本多政朝が家督を継ぐこととなった。ところが本家を継ぐはずだった[[本多忠刻]]([[千姫]]の夫)が早世したため、政朝がその後を継ぐこととなり、政勝が庶流の家督を継ぐことになったのである。このとき政朝の所領5万石の内、4万石を襲封し、残り1万石は政朝の弟[[本多忠義|忠義]]分与された。
 
その後[[1637年]]、今度はその政朝が病に倒れた。政朝には[[本多政長]]という息子がいたが、忠勝以来の掟で本多氏は幼少の子を主君としてはならないという掟があった。そのため、従兄弟に当たる政勝に本家の家督を譲り、政長が成長したら家督を譲るようにと遺言を遺して死去した。こうして政勝は、本家の家督を継ぎ、翌年には大和郡山に移封された。なお、本家家督相続前の所領4万石は子の[[本多勝行]]が襲封した。
 
ところが年が経つにつれて、政勝は養子の政長より実子の[[本多政利]]に譲りたいと画策し始めたため、これが後の[[九・六騒動]]の遠因となってしまった。1671年10月晦日、[[江戸]]柳原屋敷にて死去。[[享年]]58。
 
死後、本多氏は家督をめぐって二分に争うこととなった。墓所は[[高野山]]。
 
[[Category:江戸の大名|ほんたまさかつ]]
[[Category:譜代大名|ほんたまさかつ]]