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安定郡烏氏の人。初め、蠡吾侯の劉志(のちの桓帝)と婚約した。[[本初]]元年(146年)、梁冀は質帝が毒殺された後、権勢保持のために桓帝が擁立された。[[建和]]元年(147年)、女瑩は皇后に立てられた。
初め、女瑩は桓帝の寵愛を一身に受けた。しかし女瑩は尊貴をたのんで驕慢であり、奢侈濫費を重ねた上、梁冀の専権が続きのために、桓帝が女瑩をも恐れはばかった。梁太后が崩御した後、桓帝は他の妃嬪を寵愛していた。女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪を皆殺に追い込んだ。結局、女瑩は桓帝の信頼を失い、寵愛をも衰った。[[延熹]]3年(160年)、憂憤のうちに崩じた。「懿献」と諡され、懿陵に葬られた。
梁冀が誅殺され、懿陵も[[貴人 (後宮)|貴人]]冢と改められた。
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