「エンゲルベルト・ドルフース」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
英語版05:43, 16 September 2016の翻訳。
英語版05:43, 16 September 2016‎の翻訳。
31行目:
'''エンゲルベルト・ドルフース'''({{lang|de|Engelbert Dollfuß}}、[[1892年]][[10月4日]] - [[1934年]][[7月25日]])は、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア第一共和国]]の政治家。
 
== 首相就任まで生涯 ==
=== 青年期 ===
[[File:Engelbert Dollfuß 1912.jpg|thumb|150px|left|青年期のドルフース(中央)]]
1892年に{{仮リンク|テクシング|de|Texingtal}}(現在の[[メルク郡]][[テクシングタール]])で、ヨーゼフ・ヴェニンガーと恋人ヨーゼファ・ドルフースとの間に生まれる。しかし、2人は互いに貧農の出身だったため、財政的な理由で結婚することが出来なかった。ドルフースが生まれた数カ月後、母ヨーゼファは{{仮リンク|キリンベルク・アン・デア・マンク|de|Kirnberg an der Mank}}の地主レオポルト・シュムンツと結婚したが、シュムンツはドルフースを息子として受け入れなかった。ドルフースは敬虔なカトリック教徒として育ち、1904年に奨学金を得て{{仮リンク|ホラブルン|de|Hollabrunn}}の[[神学校]]に進学する。1913年に修士号を取得し、[[ウィーン]]の神学校に進もうと考えたが、その後[[ウィーン大学]]に進み法律を専攻した。
 
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ドルフースは徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局は徴兵された<ref>Gudula Walterskirchen: Engelbert Dollfuß - Arbeitermörder oder Heldenkanzler. Vienna 2004.</ref>。ドルフースは砲兵師団に配属され[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]に従軍するが、1918年にイタリア軍の捕虜となる。戦後はウィーン大学に戻り学業と学生団体での活動を行い、後に学生連合の代表となった。同時期に[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]、{{仮リンク|ロベルト・ホルバウム|de|Robert Hohlbaum}}、{{仮リンク|ヘルマン・ノイバッハー|de|Hermann Neubacher}}と知り合い、国家主義・[[反ユダヤ主義]]思想を身に付けた。1919年からは[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で経済学を学び、同時に農民協会で秘書を務めた。この頃に[[プロテスタント]]のアルヴィネ・グリエンケと出会い、1921年に結婚した<ref>[http://www.artikel32.com/wirtschaft/1/wer-war-engelbert-dollfu.php „Wer war Engelbert Dollfuß?“] retrieved April 19, 2012</ref>。ドルフース夫妻は1男2女をもうけるが、女児のうち1人は幼児期に死去している。
 
=== 政治活動の開始 ===
[[File:GabineteBuresch1932.jpeg|thumb|240px|ブレシュ内閣(後列左端がドルフース)]]
1922年に法学博士号を取得する。卒業後は農務省で働き、農民協会の総裁を務めた。1927年には[[ニーダーエスターライヒ州]]の農業議会議長となる。ドルフースは{{仮リンク|キリスト教社会党|de|Christlichsoziale Partei (Österreich)}}の指導者{{仮リンク|カール・フォン・フォーゲルザング|de|Karl von Vogelsang}}に心酔して入党し、農業組合設立や失業した農民のための給付金創設のため活動した。1930年9月30日に党員の{{仮リンク|カール・ファウゴイン|de|Carl Vaugoin}}が[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]に就任すると連邦鉄道の総裁に任命されたが、ファウゴン内閣は12月の議会選挙で[[オーストリア社会民主党]]が議席を伸ばした責任を取り総辞職した。
 
1931年3月に{{仮リンク|オットー・エンダー|de|Otto Ender}}内閣に農林大臣として入閣する。6月にエンダー内閣は総辞職するが、ドルフースは後継の{{仮リンク|カール・ブレシュ|de|Karl Buresch}}内閣でも農相に留任した。この頃、国内では隣国ドイツの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の影響を受けた[[ファシズム]]が勢力を拡大しており、議会では社民党との対立も抱えて政情不安な状態であり、ブレシュ内閣は1932年5月20日に総辞職した。総辞職に先立つ5月10日、大統領[[ヴィルヘルム・ミクラス]]から首相任命の内示を受け、5月20日にブレシュ内閣に代わりキリスト教社会党・[[護国団]]・農業党連立政権を発足させた。
 
=== オーストロ・ファシズムリア首相 ===
[[File:KunschackDollfussMiklas1932.jpeg|thumb|240px|left|首相に選出されたドルフース]]
首相就任後のドルフースは、[[世界恐慌]]によって引き起こされた問題に取り組むこととなった。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代の主要工業地帯の大半は、[[サン=ジェルマン条約]]によって[[チェコスロヴァキア]]や[[ユーゴスラビア王国]]の領地となっに割譲されたため、オーストリアは経済的に困窮していた。しかし、議会においてドルフースは多数派になり得なかった<ref>{{Cite book|title=Österreich I (Die unterschätzte Republik) |last=Portisch |first=Hugo |authorlink=Hugo Portisch |author2=Sepp Riff |year=1989 |publisher=Verlag Kremayr und Scheriau |location=Vienna, Austria |isbn=3-218-00485-3 |page=415}}</ref>。デフレの政策は支持されず、社民党との対立は深まった。ドルフースは[[こうした中、1933年]]3月に[[国民議会を停止し法令によって管理した。彼にはさらに、 (オーストリア)|国主主義を保留する別の理由があった。[[国家社主義ドイツ労働者党|ナチス議長]]である。[[アドカーヒトラレンナー]]が今や[[ドイツ鉄道従業員首相]]となり賃金法案に投票するため議長を辞任し将来2人オーストリアの選挙で[[オ副議長も辞任した。これに対し、ドルフーストリア・ナチス]]は「議会責務を放棄した」ことを口実にミクラスに議会の多数無期限休会占め進言し警察を動員して議会を閉鎖した。これにより、ドルフーストリアが国家としは緊急令を用い存続でき強権的くなる恐れがあっ政権運営に乗り出し([[オーストロファシズム]])
 
ドルフースが強権支配に乗り出した背景には、ドイツでナチ党の[[アドルフ・ヒトラー]]が首相に就任したことで、[[ドイツ国家社会主義労働者党|オーストリア・ナチス]]が勢力を拡大して議会の多数派になることで、オーストリアが国家として存続出来なくなる危険性があったことが挙げられる{{Refnest|group=注|ファシズム研究者の{{仮リンク|スタンリー・ペイネ|de|Stanley Payne}}によると、予定通り1933年に選挙が実施されていた場合、オーストリア・ナチスは25%の得票を獲得したと指摘している。また、[[ニューヨーク・タイムズ]]は50%の得票を得ると指摘し、中でも[[チロル]]では75%の得票率を得た可能性があると指摘している<ref>Stanley G. Payne, ''A History of Fascism 1914-1945''</ref><ref>{{cite news| url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,882197-1,00.html | work=Time | title=AUSTRIA: Eve of Renewal | date=September 25, 1933}}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,882197-2,00.html | work=Time | title=AUSTRIA: Eve of Renewal | date=September 25, 1933}}</ref>。}}。また、[[ソビエト連邦]]の影響力拡大も脅威の一つであり、ドルフースは5月26日に[[オーストリア共産党]]を、6月19日にはオーストリア・ナチスを非合法化して活動を禁止している。最終的にはキリスト教社会党以外の政党を全て解散させ、[[イタリア王国]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]をモデルとした独裁体制を確立した。ムッソリーニはヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じ[[カトリック教会|カトリック]]の保守的価値観を持つ盟友としてドルフースを強く支持したが、一方ではドイツとの[[緩衝地帯]]としての価値をオーストリアに見出していた。ドルフースはムッソリーニに宛てた手紙の中で、ヒトラーと[[ヨシフ・スターリン]]の類似性を強調し、オーストリアとイタリアがヨーロッパでの[[国家社会主義]]や[[共産主義]]の拡大を防止することを望んでいた。
この頃、[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]はナチス及びヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じ[[カトリック教会|カトリック]]の[[保守的]]価値観を持つ盟友としてドルフースを強く支持した。ドルフースは6月にナチスの活動を禁止し、翌年2月には社会民主党の活動を禁止した。これに反発する社会民主党は武装蜂起を試みたが、ただちに鎮圧された(「1934年の内乱」または「2月事件」「[[2月内乱]]」という)。
 
[[File:EngelbertDolfussTIME1101330925 400.jpg|thumb|200px|[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の表紙に掲載されたドルフース]]
[[1934年]][[4月30日]]、ドルフースは新憲法を公布する。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた(一種の[[コーポラティズム]])。これによって政府は事実上立法・行政の2権を掌握して、イタリアの[[ファシズム]]を参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名も'''オーストリア連邦国''' ({{lang|de|Bundesstaat Österreich}}) と改称された。
1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ{{仮リンク|祖国戦線 (オーストリア)|de|Vaterländische Front|label=祖国戦線}}を組織し、キリスト教社会党と[[護国団]]を統合した。10月には国家社会主義思想を理由に軍を追放されたルドルフ・デルティルがドルフースの暗殺を試みるが、失敗している。翌1934年2月12日、ドルフースは{{仮リンク|共和国防衛同盟 (オーストリア)|de|Republikanischer Schutzbund|label=共和国防衛同盟}}から武器を受け取っていたという理由で社民党員の摘発を始め、これに反発した社民党はドルフース政権に対して蜂起した。蜂起はウィーンや[[リンツ]]を始めとして[[グラーツ]]、{{仮リンク|ブルック・アン・デア・ムア|en|Bruck an der Mur]]、[[ユーデンブルク]]、[[ウィーナー・ノイシュタット]]、[[シュタイアー]]の他に東部・北部・中央部の各都市で起きたが、2月16日には全て警察や護国団により鎮圧された。蜂起の鎮圧後、社民党は活動を禁止され、幹部の大半は逮捕もしくは国外に脱出した([[2月内乱]])<ref>''[https://books.google.com/books?id=IaaJAAAAMAAJ&q=Sozialdemokratische+Partei+verboten+1934&dq=Sozialdemokratische+Partei+verboten+1934&lr=&cd=4 Protokolle des Ministerrates der Ersten Republik, Volume 8, Part 6]''. ISBN 3-7046-0004-0. Google Book Search. Retrieved on February 6, 2010.</ref>。
 
[[1934年]][[4月30日]]、ドルフースは新憲法を公布するし、5月1日に施行された。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた(一種の[[コーポラティズム]])<ref>Stanley G. Payne, ''Civil War in Europe, 1905-1949'', 2011, p. 108.</ref>。これによって政府は事実上立法・行政の2権を掌握して、イタリアの[[ファシズムや[[ポルトガル]]の[[エスタド・ノヴォ]]を参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名も'''オーストリア連邦国''' ({{lang|de|Bundesstaat Österreich}}) と改称された。
1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ{{仮リンク|祖国戦線 (オーストリア)|de|Vaterländische Front|label=祖国戦線}}を組織し、キリスト教社会党と民族主義準軍事的グループ[[護国団]]を統合した。彼によって組織され、[[1938年]]まで続いた軍事政権は、しばしば[[オーストロファシズム]]と呼ばれた。
 
=== 暗殺 ===
[[1934年]][[7月25日]]、8名のオーストリア・ナチス党員が首相官邸に押し入ってドルフースを射殺し、[[クーデター]]を試みた。それは[[アンシュルス|オーストリアのドイツへの併合]]の前兆だった。実行犯は降伏し、処刑された。[[クルト・シュシュニック]]がドルフースに続いて新しい独裁者となった。
 
== 出典脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{commonscat|Engelbert Dollfuß}}
59 ⟶ 69行目:
{{s-off}}
{{Succession box
| title = {{AUT1918}}[[File:Flag of Austria.svg|25px]] [[連邦首相 (オーストリア)|オーストリア連邦首相]]
| years = 第14代:1932年 - 1934年
| before = {{仮リンク|カール・ブレシュ|de|Karl Buresch}}