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吉川忠夫『劉裕』(中公文庫,1989)P64で「かむき」のルビが振られてますね。
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== 経歴 ==
[[劉牢之]]の甥にあたる。[[徐州]]に従事として召し出され、[[太学]]博士に転じた。劉牢之が鎮北将軍として、京口に駐屯すると、無忌は大事があるたびに、議論に参加した。[[400年]]([[隆安]]4年)、[[司馬元顕]]の子の司馬彦璋が東海王に封じられると、無忌はその下で東海国中尉となり、広武将軍の号を加えられた。[[402年]]([[元興 (東晋)|元興]]元年)、[[桓玄]]のために司馬彦璋が市で殺害されると、無忌は市に入って司馬彦璋のために慟哭した。劉牢之が桓玄に降伏しようとすると、無忌は強く諫めたが、劉牢之は聞き入れなかった。[[403年]]([[元興 (東晋)|元興]]2年)、桓玄が帝を称すると、無忌は桓玄の吏部郎の曹靖之と交友があったことから、曹靖之を通して任官を求めたが、桓玄は認可しなかった。無忌はやむなく京口に帰った。
 
無忌は劉牢之の参軍であった[[劉裕]]と仲が良く、ともに桓玄打倒の策を相談するようになった。この計画に[[劉毅]]が加わった。[[404年]](元興3年)、無忌は劉裕や劉毅らとともに起兵し、京口を占拠した。無忌は勅使と偽ったため、城中に反抗する者を出さなかった。