「キャンディーズ」の版間の差分

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だが当時の[[マネージャー]]である諸岡義明が、3人の中で伊藤だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、[[1975年]](昭和50年)に発売した5枚目のシングル「[[年下の男の子 (キャンディーズの曲)|年下の男の子]]」で方針を転換。「お姉さん」的[[キャラクター]]の伊藤をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又[[オリコンチャート|オリコン]]でも初のベストテン入りを果たした。
 
以降のシングルでは、[[1977年]](昭和52年)発売の「[[わな (キャンディーズの曲)|わな]]」が藤村のセンターである以外は、すべて伊藤がセンターを務めた。翌[[1976年]](昭和51年)発売の「[[春一番 (キャンディーズの曲)|春一番]]」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。その後1977年(昭和52年)にも「[[やさしい悪魔]]」「[[暑中お見舞い申し上げます]]」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばす。それ以降のシングルでは、「[[わな (キャンディーズの曲)|わな]]」が藤村のセンターである以外、全て伊藤がセンターを務めた。その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ!全員集合』や、『[[みごろ!たべごろ!笑いごろ!]]』などのバラエティ番組で[[コント]]までこなす積極的な[[テレビ]]出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。
 
キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博した[[ピンク・レディー]]とは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、田中と[[増田恵子]]などはとても仲がよかった。