「ピョートル・バドマエフ」の版間の差分

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1871年に[[イルクーツク]]の[[ギムナジウム]]を卒業したバドマエフは[[サンクトペテルブルク大学]]に入学して[[東洋学]]と医学を学び、1875年に卒業した。医学を学ぶ傍ら陸軍士官学校の軍医コースにも通ったが、卒業はしていない。その後、兄アレクサンドルの伝手で[[アレクサンドル3世]]が代父となり[[ロシア正教会]]の洗礼を受け、名前を[[ピョートル1世]]にあやかり「ピョートル・バドマエフ」に改名した。1875年に外務省アジア局に入省し、兄アレクサンドルの死後はポクロンナヤの丘に薬局を開設して[[ロマノフ家]]の皇族たちの治療に携わるようになった<ref name="russianow"/><ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 26.</ref>。そのため、バドマエフはアレクサンドル3世や[[ニコライ2世]]から信頼を得るようになった。
 
バドマエフは薬局の庭で栽培したハーブを調合した独自の薬を処方した。著名な患者として内務大臣の[[アレクサンドル・プロトポポフ]]がおり、また、[[フェリックス・ユスポフ]]や協力関係にあった[[グリゴリー・ラスプーチン]]によると、ニコライ2世、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]にも薬を処方していたという。当時のロシア貴族の間では[[神秘主義]]や[[チベット]]世界観が流行しており、バドマエフもチベット医学書の翻訳をしている<ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. [http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf]. Retrieved 2012.03.27. P. 29.</ref>。1877年に上流階級の令嬢ナジェーダ・ヴァシリエヴナと結婚した。1881年から1883年にかけて[[清]]、[[チベット]]、[[モンゴル国|モンゴル]]を旅し、その途中で[[クロンシュタットのイオアン]]の元を訪れている<ref name=autogenerated1>[http://web.archive.org/web/20050504053645/http://www.profile.ru/items/?item=5362 «Петр Бадмаев. Дело врача» Е.Иваницкая, А.Гамалов]</ref>。
 
=== 外務官僚 ===