「プロヴァンス王国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
61行目:
}}
 
'''プロヴァンス王国'''(プロヴァンスおうこく)は、旧[[ブルグント王国]]のあった地域の[[ジュラ山脈|ユラ山脈]]以南に存在した[[王国]]。[[855年]]の皇帝[[ロタール1世]]の死後、遺領の[[中フランク王国]]を息子たち[[ロドヴィコ2世]]、[[ロタール2世]]、[[シャルル (プロヴァンス王)|シャルル]]が遺領の[[中フランク王国]]を3分して治めたうちの[[シャルル (プロヴァンス王)|シャルル]]が治めた[[プロヴァンス]]をさす受け継いだ領土である
 
[[863年]]に国王シャルルが死去するとプロヴァンス王国は長兄の皇帝(及び[[イタリア王国 (中世)|イタリア王]])[[ロドヴィコ2世]]がプロヴァンス王を兼ねた。[[870年]]に次兄の[[ロタリンギア王国|ロタリンギア王]][[ロタール2世]]も死去したが、ロドヴィコ2世はイスラムとの戦いにかかりっきりであった。このため、隙に叔父の[[東フランク王国|東フランク王]][[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]][[西フランク王国|西フランク王]][[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]が結託してロタリンギ以外の[[中フラばかりかプロヴァク王国]]旧領スの一部奪い取り、[[メルセン条約]]によってプロヴァンス王位は西フランク王シャルル2世のものとなった。ただし、この時点ではまだプロヴァンス王国旧領の東半分はイタリアの皇帝[[ロドヴィコ2世]]の領土であった。
 
シャルル2世は[[875年]]にイタリアの皇帝[[ロドヴィコ2世]]も継嗣無く没したのに乗じ、。シャルル2世はすかさずイタリア王国を征服した。このためて皇帝となりその際に[[プロヴァンス]]全体が西フランク王国領となっも統一された。シャルル2世の腹心であり、王太子[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]の後見人であるボソがプロヴァンスの支配任され、プロヴァンス伯となっに任じた。シャルル2世の死後はルイ2世が西フランク王となり、そのままプロヴァンス王も継承した。ルイ2世が死去すると、西フランク王国は[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]と[[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]の2人の息子が分割統治することとなり、プロヴァンスはカルロマンが担当した。しかしこの兄弟とプロヴァンス伯ボソは政治的対立関係になった。
 
[[879年]]にプロヴァンス伯[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]は反乱をおこして独立し、プロヴァンス王位についた。プロヴァンス王国は再び独自の王を持つようになった。このプロヴァンス王国は低地ブルグント王国(キスユラブルグント王国)とも言う。独立を果たしたボソであったが、やがてイタリア王と東フランク王を兼ねる皇帝[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]の協力を得た西フランク王カルロマンによって[[882年]]に反撃された。プロヴァンス王国は再び西フランクに併合され、カルロマンがプロヴァンス王を兼ねた。カルロマンは[[884年]]に死去したが子が無く、兄のルイ3世も[[882年]]にやはり子が無いまま死去しており、弟の[[シャルル3世 (西フランク王)]]は5才の幼児であった。このため、皇帝カール3世がプロヴァンスを含む西フランクを相続した。これはフランク王国の再統一でもあった。