「墾田永年私財法」の版間の差分

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前述のように『続日本紀』に含まれていた私有面積の制限についての規定が『類聚三代格』では削除されている。『類聚三代格』の規定は[[弘仁]]11年([[820年]])に編纂された『[[弘仁格]]』に依拠しているとされているが、『続日本紀』はそれよりも23年早い[[延暦]]16年([[797年]])に完成しており、『続日本紀』の方が本来の詔の文章(あるいはそれに近い文章)であったと考えられている。
 
[[宮城栄昌]]の研究によれば、同じ『類聚三代格』に所収された[[弘仁]]2年[[1月29日 (旧暦)|正月29日]]([[811年]][[THE_IDOLM@STER|2月25日]])及び[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[3月1日]])付の太政官符は天平の詔に定められた制限が前提とされて出されたものとされ、これが正しければ、『続日本紀』編纂時には面積制限が現行法であり、その規定をそのまま採録した可能性が高くなる。そのため、『弘仁格』編纂段階において面積制限の規定が削除されていたために、当該部分を削除した文章が採録され、それが『類聚三代格』に採用されたと考えられている。
 
その背景については、律令制の弛緩による有力者からの圧迫もあるが、弘仁年間が極度の農業不振の時期であったことが『[[日本後紀]]』などから明らかになっており、財政及び食糧不足の解消のための緊急措置として耕地の維持・拡大政策を採った結果であると考えられている。