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{{大統領
| 人名=ネジメッティン・エルバカン
| 各国語表記={{lang|tr|Necmettin Erbakan}}
| 画像=Necmettin-Erbakan.jpg
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'''ネジメッティン・エルバカン'''([[トルコ語]]:'''{{lang|tr|Necmettin Erbakan}})'''、[[1926年]][[10月29日]] - [[2011年]][[2月27日]]<ref name="47newsdeath">[http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011022701000586.html ネジメティン・エルバカン氏死去 元トルコ首相 - 47NEWS(よんななニュース)]</ref>)は、[[トルコ]]の政治家、[[トルコの首相|首相]]([[1996年]][[6月28日]]-[[1997年]][[6月30日]])。
 
[[1973年]]に[[国民救済党]]党首となり、1970年代の連立政権に参加して、副首相を務めたが、[[1980年]]の[[9月12日クーデター|軍事クーデタ]]で失脚。民政移管後に[[福祉党_ (トルコ)|福祉党]]を結成し、[[1996年]]に首相に就任した。[[1997年]]に軍部の圧力により首相を辞任した。
 
== 経歴 ==
エルバカンは、[[1929年]]に[[黒海]]沿岸の都市[[スィノプ]]で生まれた。[[1948年]]に[[イスタンブール工科大学]]機械工学科を卒業後、[[西ドイツ]]の[[アーヘン工科大学]]に留学して博士号を取得した。帰国後の[[1954年]]に母校のイスタンブール工科大学で教職に就いた。
 
エルバカンは、トルコの産業界とも親交を持ち、大財閥による経済支配を批判して、中小企業経営者の支持を集めた。彼らの支持をもとに、[[1968年]]にトルコ商工会議所連合会({{lang|tr|Türkiye Odalar ve Borsalar Birliği}})会頭に就任したが、財界からの圧力により翌[[1969年]]に会頭を辞任。その後、政界への進出を目指すようになる<small><ref>澤江 pp.73-74.</ref></small>。
 
エルバカンは、左翼勢力と大資本を批判し、[[イスラーム]]的価値観に基づいた経済発展の必要性を主張した。中小企業の保護育成、[[利子]]の廃止、[[世俗主義]]原則の否定、[[欧州共同体]](現在の[[欧州連合]])加盟反対などからなる政策は、エルバカンにより「国民の視座」を意味する「'''[[ミッリー・ギョリュシュ]]''' {{lang|tr|Millî Görüş}}」の名で呼ばれ、その後の国民救済党、福祉党の理念となった。[[1975年]]にはエルバカンの著による同名の著作が公表された<small><ref>澤江 pp.77-83.</ref></small>。
 
=== 国民救済党の結成 ===
エルバカンは、当初、与党[[公正党]]内のイスラーム系議員と連携し、同党内での影響力確保を目指したが、宗教勢力の影響拡大を好まない公正党党首[[スュレイマン・デミレル|デミレル]]により阻止された。[[1969年]]の総選挙では[[コンヤ]]選挙区から無所属で立候補し当選。政界に進出した。
 
[[1970年]]には、保守政党のイスラーム系議員を糾合して'''[[国民秩序党]]'''を設立。[[1971年]]に、同党が憲法裁判所から活動禁止処分を受けたため、翌[[1972年]]に'''[[国民救済党]]'''を設立し、[[1973年]]に党首となった<small><ref>澤江 pp.72-73.</ref></small>。
 
1970年代のトルコ政局は、[[共和人民党]]、[[公正党]]の2大政党が議会を支配したが、どちらも単独で過半数を制することができなかったため、国民救済党は両政党の間で[[キャスティング・ボート]]を握ることとなった。国民救済党は、[[1974年]]から[[1978年]]の間、第1次[[ビュレント・エジェヴィト|エジェヴィト]]内閣、第4次、第5次[[スュレイマン・デミレル|デミレル]]内閣に与党として参加し、エルバカンも副首相を務めた<small><ref>新井 pp.274-280.</ref></small>。
 
=== 福祉党の結成 ===
[[1980年]]、政局の混乱を受けて、軍部は[[9月12日]]にクーデタを起こし、全政党を活動禁止とした([[9月12日クーデター]])。国民救済党も非合法化され、エルバカン以下主要幹部も逮捕された。[[1983年]]の民政移管の際に、同党の支持層の受け皿として'''[[福祉党_ (トルコ)|福祉党]]'''が結成されたが、エルバカンは10年間の政治活動禁止処分を受けていたため、福祉党は公式には別の人物を党首として設立された<small><ref>新井 pp.281-291.</ref></small>。
 
[[1987年]]に[[トゥルグト・オザル|オザル]]政権が行った国民投票の結果、クーデタ以前の主要政治家に対するパージが解除され、福祉党党首に就任。[[1991年]]の総選挙でコンヤ選挙区から立候補し[[トルコ大国民議会|国会]]に復帰した。[[1995年]]の総選挙で福祉党は議会第1党となり、選挙後に成立した[[祖国党]]と[[正道党]]の連立政権が短命に終わったため、[[1996年]][[6月28日]]、福祉党と正道党の連立によるエルバカン政権が発足した。
 
=== 福祉党の解党 ===
[[1997年]][[2月28日]]、軍部は、[[国家安全保障会議_ (トルコ)|国家安全保障会議]]の席上で、「宗教的反動勢力」への警告を表明。5月には憲法裁判所に対して福祉党の非合法化を求める訴訟が最高検察庁から提出された。エルバカンは軍部の圧力に屈して首相を辞任し、[[1997年]][[6月30日]]に福祉党政権は崩壊した。
 
[[1998年]]1月の憲法裁判所判決は、福祉党幹部の反[[世俗主義]]的言動を認定し、福祉党は非合法化された。エルバカンら党幹部も5年間の政治活動禁止を言い渡された<small><ref>澤江 pp.171-179. </ref></small>。
 
福祉党の解党後、後継政党として設立された[[美徳党]]、[[至福党]]に対して、なお影響力を有しており、政治活動禁止措置の解除後は、至福党党首([[2003年]]-[[2006年]])を務めた。
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== 語録 ==
「難しい道を歩きたい人たちは、歩き始める前に、まず自分の心と頭でその道を歩かないといけません。
:そして「どうすればその道を歩けるのかしら。無理ではないか ?」という疑問と不安から自分を開放し、
:とにかく歩き出しなさい。
:進み続ければ、困難であっても、その道を歩いてきたこと、気が付かないうちに目的地に着いていたことがわかるはずです。
:その時初めて、難しいと思っていたことはそんなには難しくない、
:どんな壁でも乗り越えられるという強い自信が人間の心に生まれるのです。」<small><ref>バシャラ pp.119.</ref></small>。
 
== 脚注 ==
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* {{official|http://www.necmettinerbakan.org}}
* [http://erbakan.vze.com Necmeddin Erbakan]
 
 
{{トルコ共和国首相}}
 
{{DEFAULTSORT:えるはかん ねしめつていん}}
[[Category:トルコの首相]]
[[Category:イスタンブール工科大学の教員]]