「国民救済党」の版間の差分

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国民救済党は、[[1974年]][[1月26日]]に共和人民党と連立を組み、[[ビュレント・エジェヴィト|エジェヴィト]]政権を樹立。エルバカンも副首相として入閣した。
同政権は、[[中道左派]]の共和人民党と[[中道右派]]の国民救済党の連立であったため、当初から閣内不一致が目立ち、政権基盤は不安定であった。このため、[[キプロス]]危機で国民の支持を集めたエジェヴィトは、政局の安定を目指して総選挙の実施を図ったが、これに失敗して総辞職した。その後[[1975年]][[3月31日]]に、公正党の[[スュレイマン・デミレル|デミレル]]を首班とする保守系4党([[公正党]]、国民救済党、[[民族主義者行動党]]、[[共和信頼党]])による民族主義者戦線({{lang|tr|milliyetçi cephe}})政権が成立し、国民救済党も副首相等の閣僚ポストを得た<small><ref>新井 pp.274-280.</ref></small>。
 
1970年代の連立政権にあって、国民救済党は、経済関連の閣僚ポストを獲得し、[[イマーム・ハティープ学校]]の設置促進や、国営企業の設立による地方への雇用創設などの政策を実現した<small><ref>澤江 pp.89-90.</ref></small>。
 
== 1980年クーデタ ==
1970年代のトルコ政局は、連立政権が次々と入れ替わるなど不安定であり、左右両派の対立によるテロ事件も続発した。さらに、[[インフレーション|インフレ]]が慢性化するなど経済状況も悪化の一途を辿った。こうしたトルコ政治の行き詰まりは、軍部に政党政治の限界として捉えられた。
 
こうした政治危機の中、エルバカンは[[1980年]]8月に、[[アタテュルク廟]]での[[希土戦争_ (1919年-1922年)|独立戦争]]戦勝記念日の行事を欠席しただけでなく、翌[[9月6日]]に[[コンヤ]]で大規模な政治集会を催し、集会参加者がトルコで禁止されているトルコ帽([[フェズ_ (帽子)|フェス]])を被って、[[シャリーア|イスラーム法]]の施行を要求するプラカードを掲げてデモ行進をするなど、急進的な示威行動を展開した<small><ref>新井 pp.281-282. 澤江 pp.98-101.</ref></small>。
 
こうした[[ケマル・アタテュルク|アタテュルク]]に対する公然の批判や、トルコの国是である[[世俗主義]]原則の否定は、現体制に対する深刻な敵対行為として軍部に受け取られ、軍の政治介入の直接の契機となった。[[1980年]][[9月12日]]に[[9月12日クーデター|軍部はクーデタを起こし]]、全政党は活動を禁止された。国民救済党も非合法化され、エルバカン以下主要幹部も逮捕された。同党の支持勢力は、[[1983年]]の民政移管の際に結成された[[福祉党_ (トルコ)|福祉党]]に移ることとなった。
 
==総選挙での得票率、獲得議席数==
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<div style="font-size:small"><references/></div>
 
== 参考文献 ==
* 新井政美 『トルコ近現代史』 みすず書房 2001年 (ISBN 4-622-03388-7)
* 澤江史子 『現代トルコの民主政治とイスラーム』 ナカニシヤ出版 2005年 (ISBN 4-88848-987-4)
 
 
{{トルコの政党}}