「ジャン・ポトン・ド・ザントライユ」の版間の差分

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==略歴==
フランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]に味方して[[イングランド王国|イングランド]]軍に対して勇猛果敢さを発揮し、[[1421年]]3月に同郷の[[ラ・イル]]と共に[[ボージェの戦い]]に参戦、8月に[[ピカルディ地域圏|ピカルディー]]の戦闘に敗れイングランド軍に捕らえられたが、身代金を払い釈放された。[[1423年]]にはヨンヌ近くの[[クラヴァンの戦い]]で再度捕虜となったが、[[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]との交換により釈放された。[[1424年]]の[[ヴェルヌイユの戦い]]で奮戦したが戦闘はフランス軍の敗北となっている<ref>エチュヴェリー、P120、P129、ペルヌー、P314 - P315。</ref>。
 
[[1428年]]から始まった[[オルレアン包囲戦]]で[[ジャン・ド・デュノワ]]、ラ・イルと共に[[オルレアン]]へ入城してイングランド軍と戦い、[[1429年]][[2月12日]]にイングランド補給部隊を叩こうとして失敗したが(ニシンの戦い)、4月末から援軍に加わったジャンヌ・ダルクと共にオルレアンを開放した。[[コンピエーニュ]]ではイングランド軍の包囲を解き、[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン公]][[ジャン2世 (アランソン公)|ジャン2世]]、[[ジル・ド・レ]]らに加勢、[[ジャルジョーの戦い]]([[:en:Battle of Jargeau|en]])、[[ボージャンシーの戦い]]([[:en:Battle of Beaugency|en]])、[[パテーの戦い]]などで活躍した。また、囚われたジャンヌの奪回を試みた際に[[ペロンヌ]]で[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)の軍と戦い、敵軍を敗走させた<ref>エチュヴェリー、P169、P179 - P190、P202、ペルヌー、P120 - P121、P166、P262、P315 - P316、P322 - P323、P378 - P380。</ref>。
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[[1431年]]8月に[[ノルマンディー]]を攻撃しようとして[[ウォリック伯]][[リチャード・ド・ビーチャム (第13代ウォリック伯)|リチャード・ド・ビーチャム]]の逆襲に遭い、3度イングランドに捕らわれる。ウォリック伯の居城ブーヴルイユ城で軟禁生活を送りフランスを転々とし、時期は不明ながら身代金を払い釈放された。
 
以後はラ・イル、デュノワ、[[アンドレ・ド・ラヴァル]]らと共に[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]大元帥に従事、[[1435年]]の[[ジュルブヴォワの戦い]]([[:en:Battle of Gerbevoy|en]])ではラ・イルと共に指揮官として活躍して[[アランデル伯爵|アランデル伯]][[ジョン・フィッツアラン (第14代アランデル伯爵)|ジョン・フィッツアラン]]([[:en:John FitzAlan, 14th Earl of Arundel|en]])を捕虜にした。しかし、部隊を率いての略奪行為を頻繁に繰り返していたため、リッシュモンに厳重注意を与えられたり、盗んだ品物の返還を度々命じられている。また、リッシュモンの命令でラ・イルと共にイングランド軍攻撃に行くこともあるが、無計画で出撃するため[[1436年]]の戦闘でタルボットに敗北、[[1437年]]の戦闘でにもタルボットと[[トーマス・スケールズ]]率いるイングランド軍に撃破され、1437年に捕虜となっている。
 
以降の百年戦争の局面では[[1444年]]に王太子[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ]](後のルイ11世)の[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]遠征に加わり、[[1449年]]のノルマンディー征服、[[ギュイエンヌ]]再征服などの功績を挙げた<ref>エチュヴェリー、P208 - P209、P215、P225、P233、ペルヌー、P268、P323 - P324、P355 - P357。</ref>。シャルル7世はザントライユの忠誠心溢れる奉仕に対して、1454年にはフランス元帥に任じ、サン・マケールの町も与えた。