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'''宇佐神宮'''(うさじんぐう)は、[[大分県]][[宇佐市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]]3社)、[[豊前国]][[一宮]]、[[勅祭社]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
 
全国に約44,000社ある[[八幡宮]]の総本社である。[[石清水八幡宮]]・[[筥崎宮]](または[[鶴岡八幡宮]])とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは'''八幡宇佐宮'''または'''八幡大菩薩宇佐宮'''などと呼ばれた。また[[神仏分離]]以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には'''宇佐八幡宮弥勒寺'''と称していた<ref group="注">神仏習合の時代にあっても、多くの神社では神社を管理運営する寺院(いわゆる神宮寺)が同一敷地にあるといった形式が主流である。しかし宇佐神宮を筆頭とする全国の八幡宮の場合はそもそも[[八幡神]]自体が同時に[[八幡大菩薩]]という仏でもあったため、八幡宮と神宮寺は一体のものであり、「八幡宮」=「八幡大菩薩を本尊とする寺院」であった。宇佐神宮の場合は、その寺としての名称が弥勒寺であったのである。例えば、京都の[[石清水八幡宮]]の場合は神仏分離以前の正式には「石清水八幡宮護国寺」と称していた。このような事情から、神社のなかでも八幡宮はもっとも早くから神仏習合が進んだ神社であった。また同時に、神仏分離の際にも神宮寺が別個に境内外へ移転することもなく、そのまま寺としては廃寺となり、比較的早く神仏分離を完了した。宇佐神宮の場合、かつて弥勒寺として多数の塔頭・伽藍が立ち並んでいた菱形池周辺は今では茫漠とした広大な社叢となっている。ちなみに現在の呉橋を渡ったところには弥勒寺の楼閣がそびえていたが、これは戦前まで残っていた。</ref>。
 
現在でも通称として'''宇佐八幡'''とも呼ばれる。
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[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』には、3神が「[[豊前国]][[宇佐郡]] 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも[[名神大社]]に列している。
 
また、平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の[[荘園]]領主であった。また神職家や坊官家は武士としても活動しており<ref group="注">例えば豊臣政権期に黒田氏が中津に赴任してきた際、大宮司家のひとつ宮成氏や坊官家の時枝氏が黒田氏の配下に入ったことが知られている。</ref>、このため近郊の(特に[[豊後国]]の)有力武士としばしば敵対している。
 
源平争乱期には[[平清盛]]の娘を妻とする大宮司・[[宇佐公通]]が[[平氏]]方につく。[[屋島の戦い]]から敗走する総大将・[[平宗盛]]ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間[[安徳天皇]]と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の[[緒方惟義]]が[[源氏]]方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した[[平清経]]が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により[[石清水八幡宮]]が管理することになった<ref group="注">ちなみに神社としての石清水八幡宮はもともと宇佐神宮から八幡神を分霊したものであり、宇佐神宮のほうが本社である。しかし寺院としては宇佐八幡宮弥勒寺が石清水八幡宮護国寺の末寺という関係にあり(いずれも天台宗)、石清水八幡宮のほうが京に近く朝廷から直接崇敬されたこともあり、その後も「どちらが格上か」については宇佐神宮と石清水八幡宮の間で意見の相違があった。</ref>
 
[[鎌倉時代]]の[[元寇]]でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。この際に活躍した[[宇佐公世]](公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。その子・[[宇佐公連|宇佐(到津)公連]]は[[鎌倉幕府]]倒幕においても活躍して、後に[[懐良親王]]擁立に参加している。
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* 天平勝宝元年(749年)12月27日、二品 (『続日本紀』)
* [[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]])10月29日、一品 (『[[日本文徳天皇実録]]』)
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=== 隼人の反乱・行幸会・放生会 ===
{{独自研究|date=2012年7月}}
708年創建と伝えられている[[鹿児島神宮|大隅正八幡宮]]は、[[隼人]]の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に由来するもので、興味深いことに平安末期の記録には、辛島氏出身の漆島氏および酒井氏がその神官を務めたとあり、地主神に、おそらくは豊の国から移住してきた、秦一族の八幡神信仰が合祀されたと考えられている。
699年には辛国の神山名に由来、辛嶋氏に関係すると思われる「稲積城」が日向南部に築かれたことからして、豊の国の秦一族、中でも祭祀を主に司っていた「辛島勝」姓を名乗らなかった辛嶋氏の一部(こちらが本家筋ではないか、とも言われている)が7世紀頃より移住した、と考えられている。「辛嶋」氏の中で、隼人の反乱に勝利した宇佐の辛嶋氏が、大隅の辛嶋氏と区別するため、後に「辛嶋勝」姓を名乗った、という説もある。「勝」は、本来は一族の長である、「村主」が語源と考えられている。
 
[[続日本紀]]の和銅7年(714年)の記事に、「豊前国の民二百戸を移して」[[曽於郡]]とそこから分かれた[[桑原郡]]に住んだ、との記録がある。「曽於」も「桑原」も、豊の国に縁の名であり、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられていることから、この頃には隼人の勢力圏内へ秦一族が浸透していったと考えて良いかと思われる。むしろ、秦一族の持つ農耕や畜産、養蚕に鉄や銅器等の製造技術や気象や天体に関する知識などを隼人に広めたとも考えられている。
 
隼人は700年には川内国府を、720年には[[大隅国|大隅]]国府を襲撃、反乱の烽火を上げる(隼人の反乱)が、[[万葉集]]歌人として高名な[[大伴旅人]]が率いる大和朝廷軍および辛嶋波豆米率いる宇佐神軍により鎮圧されてしまう。
 
この隼人の反乱の際、大分県中津市大貞の薦神社の三角(御澄)池に自生する[[マコモ|真薦]](まこも)を刈って枕形の御験(みしるし)、薦枕を創り、これをご神体として神輿を奉じて[[日向国|日向]]まで行幸、乱を鎮めたと言われている。これは、中津薦神社が宇佐神宮の元宮であり、そこを手中に収めている宇佐神宮こそが本家であると暗に主張することにより、隼人の反乱の黒幕である秦一族、中でも辛嶋氏の動きを封じたことが功を奏したのではないか、と考えられている。従って、この隼人の反乱は、神仏習合を進める大和系の大神一族と、大和系に支配されるのを嫌って日向や大隅に移り住んだ秦一族、中でも宇佐神宮に対抗して708年に建立したと伝えられている大隅正八幡宮を取り仕切る、原始八幡神を祀る辛嶋宗家による勢力争いに端を発したものではないかとも考えられている。
 
{{要出典範囲|date=2011年8月|なお、この薦刈神事は宇佐神宮行幸会(ぎょうこうえ)の中で、辛島一族が当時より行い伝えている}}。(第七十九代宇佐神宮宮司、故・池永公比古氏2004年6月6日自社薦神社にて「豊の国の姫巫女たち」著者楠薫に語る)
 
ちなみに隼人の反乱後、多数の隼人を殺傷したので、放生供養せよとの八幡神のお告げがあり、[[放生会]]が行われるようになったと言われている。
 
参考:[[磐井の乱|筑紫君磐井の反乱]](527 - 528年)は、豊・肥の二国で蜂起、磐井は宇佐を目指して敗走中、山国川沿いの「豊国上膳(かみつみけのこおり)の峻しき山の曲(クマ)に身を終りぬ」とされる。しかし当時宇佐は豊の国の中心地ではなく、中津付近が最も栄えていたとされ、しかも山国川の下流平野部に位置し、その中心的存在であった中津薦神社はその後、歴史の表舞台から姿を消す。同時に繁栄を誇っていた[[秦氏]]も姿を消していることから、この頃、多数の秦一族が豊の国から日向・大隅地区に移動したのではないか、と考えられている。祭祀を司っていた辛嶋氏の一部は宇佐辛嶋郷に移り住んで再起を期し、稲積六神社をはじめ、郡瀬神社等を建築するものの、欽明天皇32年(571年)の大神比義の託宣以降、崇峻天皇(588 - 592年)の御代に大和朝廷の息のかかった鷹居社が造られ、[[元明天皇]]和銅元年(708年)、社殿を建築、同5年(712年)には官幣社となり、こちらが繁栄することとなる。708年創建と伝えられている大隅正八幡宮と、ほぼ時を同じくしている点に、当時の政治的な思惑があると推測されている。
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== 境内 ==
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=== 年間祭事 ===
<!--公式ホームページより-->
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">宇佐神宮 年間祭事一覧</div>
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=== 国宝 ===
* '''本殿''' (第一殿から第三殿に至る3棟)
* '''孔雀文磬''' (くじゃくもん けい) - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている<ref group="注">管理団体指定告示は昭和58年6月17日文化庁告示第12号</ref>)。鎌倉時代、承元3年(1209年)銘。宇佐神宮の神宮寺の弥勒寺に伝来したもの。
 
=== 重要文化財(国指定) ===
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* 銅鐘([[朝鮮鐘]]) - 天復四年([[904年]])云々の左文銘あり。日本にある朝鮮鐘の中では2番目に古い
* 白鞘入剣(しらさやいり けん) - 長さ93.5cm、両鎬造り。[[正平 (日本)|正平]]13年([[1358年]])[[懐良親王]]が[[征西大将軍]]として活躍している際に、武運長久を祈願して奉納した剣
* 豊前国宇佐宮絵図<ref group="注">平成25年6月19日文部科学省告示第113号</ref>
* 宇佐神宮造営図 3幅
* 宇佐宮神領大鏡 - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている<ref group="注">管理団体指定告示は昭和58年6月17日文化庁告示第12号</ref>)
 
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[国宝一覧]]
* [[宇佐八幡宮神託事件]]([[道鏡]]・[[称徳天皇]]・[[和気清麻呂]])
* [[道鏡]]
* [[称徳天皇]]
* [[和気清麻呂]]<ref>http://www.sankei.com/world/news/161028/wor1610280005-n2.html</ref>
* [[八幡神]]
* [[六郷満山]]