「ディープ・スロート (映画)」の版間の差分

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[[日本]]では、[[東映]]系の洋画配給会社・東映洋画が輸入したが、ハリー・リームスら俳優の性器丸出しの[[わいせつ]]なシーンカットの嵐で、日本でまともに映写できるのは15分程度と1本の映画として成り立たず、元々70分しかない短い映画が公開不能になった<ref name="ピンキー">{{Cite book | 和書 | title = 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | publisher = [[徳間書店]] | year = 1999 | pages = 252-255 | id = ISBN 4-19-861016-9 }}</ref><ref name="二階堂">{{Cite book | 和書 | title = ピンク映画史 | author = 二階堂卓也 | publisher = [[彩流社]] | year = 2014 | pages = 311-317 | id = ISBN 978-4779120299 }}</ref>。頭を抱えた東映は同じダミアーノ監督『[[ミス・ジョーンズの背徳]]』とくっつけて二部構成にする苦肉の策をとった<ref name="二階堂"/>。そこで、話の辻褄を合わせるため、[[ピンク映画]]の監督・プロデューサー[[向井寛]]に頼み<ref name="ピンキー"/>、向井が日本国内で外人女性を使って演出したオリジナルシーンを撮り足し一本に仕上げた<ref name="二階堂"/>。結局『ディープ・スロート』は1975年8月に日本で公開され、作品そのものの持つ知名度と大宣伝により、[[配給収入|配収]]1億7000万円のヒットになった<ref name="二階堂"/>。この功労により東映は向井に大きな権限を与え、これを機に向井は東映から「500万円ポルノ」を大量に発注しユニバースプロを設立、これが後に獅子プロダクションへと移行し[[片岡修二]]や[[滝田洋二郎]]らを育て、また不遇だったピンク映画出身監督に一般映画制作のチャンスを与える先例となった<ref name="ピンキー"/><ref name="二階堂"/>。
 
==関係者のその後==
* 監督のジェラルド・ダミアノは本名を出すのをはばかり、変名の「ジェリー・ジェラルド」としてクレジットされた。さらにダミアノはパーティーの場面で短時間現れる。クレジットに彼は「アル・ゴーク」と記述された。彼は収益に対する3分の1の権利を持っていたが、映画が大成功するとペライノらに取り分を踏み倒された。
* 主演女優のリンダ・ラヴレースは本作の大ヒットで、一躍ポルノ界の大物女優にのしあがったが、本作の出演料は1,2001200ドルだったという。のちに出版した自伝では、夫のチャック・トレイナーが彼女を無理やり出演させ、さらに出演料を横取りしたとして非難している。
* 共演のハリー・リームスは、元々もともとも製作スタッフとして200ドルで雇われたのだが、100ドルの出演料上乗せで映画に出演することに合意した<ref>当時のアメリカのポルノ俳優の出演料は、1日150ドル~200ドル(約33,000円~44,000円)、撮影クルーは1日150ドル、助監督は50ドル(約11,000円)。1本の製作費はどこかのアパートを借りて撮影すると約5,000ドル(約110万円)程度であった(週刊サンケイ、1982年1月21日号p150-154)。地方ロケが入ると製作費はこれより高くなる。</ref>。
* リンダの夫チャック・トレイナーも、映画撮影製作マネージャーである見なされして働いていた。またある点では彼は俳優して出演しよう見なされ。しかしな彼はカメラの前で[[勃起]]を維持することが出来できなかった([[勃起不全]])1974年にリンダ・ラヴレースは1974年に離婚した後彼は別のポルノスターの[[マリリン・チェンバース]]と関係浮名持っ流した。
 
==脚注==