「台北府城北門」の版間の差分

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|ISBN=9784478058299}}
</ref>。国の第一級古蹟として現存する他の門([[台北府城小南門|小南門]]、[[台北府城東門|東門]]、[[台北府城南門|南門]])とともに認定されている<ref name="boch" /><ref name="chiq" />。呼称は資料によって揺れがあり、[[中華民国]]([[台湾]])の[[文化部 (中華民国)|文化部]][[文化部文化資産局|文化資産局]]では史跡の登録名として'''台北府城門-北門'''(臺北府城門-北門)とし<ref name="boch" />、また台北を扱う文脈上では単に'''北門'''<ref name="chiq" />などと表記される。2層構造になっており、下層部は通り抜け可能、上層の建屋内部は立ち入りできないようになっている<ref name="tcg">{{Cite web |url=http://www.discovery.tcg.gov.tw/frontsite/jp/sceneryJpListAction.do?method=doFindByPk&menuId=1040501&scenerySerNo=2011102100000001 |title=北門‐承恩門 |publisher=台北市政府観光伝播局 |accessdate=2015-10-17}}</ref>。
 
北門は[[清|清朝]]の治下であった[[1882年]]に着工<ref name="boch" />、[[1884年]]<ref name="boch" /><ref name="katakura_23" />に[[城塞都市]]としての側面をもつ台北府城の北の門として完成した<ref name="tcg" />。ちなみにこの市壁は建前としては住民を守るためのものであったが、統治機関を守るためという主眼があったとされる<ref name="katakura_22">前掲 {{harv|片倉|2011|p=22}}。</ref>。1895年に[[下関条約]]が締結され台湾が日本の統治下に入ると、台北府城の市壁は上下[[水道]]を整備するための資材として転用され、門だけが残ることとなった<ref name="katakura_22" />。1935年には[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]で保護対象とされた<ref name="katakura_23" />。戦中戦後、台北府城と他の4つの門は撤去、あるいは改装され当初の姿を留めていない<ref name="katakura_23" />。北門も安定期の都市開発の流れの中で撤去されそうになったが文化財保護の観点から<ref name="tcg" />、[[1998年]]9月3日付け公示で史跡として保護されることとなった<ref name="boch" />。