「レオポルド1世 (ベルギー王)」の版間の差分

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1790年12月16日、[[コーブルク]]のエーレンブルク城でザクセン=コーブルク=ザールフェルト公[[フランツ (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)|フランツ・フリードリヒ]]の三男として生まれた。母は[[アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ]]。
 
[[1795年]]、5歳の時に[[ロシア帝国|ロシア]]の近衛軍[[{{仮リンク|イズマイロフスキー連隊]]|en|Izmaylovsky Regiment|ru|Измайловский лейб-гвардии полк}}の大佐となり、それから7年後には少将になった。この時、祖国ザクセン=コーブルク公国は[[フランス第一帝政|フランス]]軍の占領下にあった。[[1806年]]に[[パリ]]へ行った。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]と会った時、自分の副官になるつもりはないかと持ちかけられたが、レオポルトはこの申し出を断った。その後、レオポルトは兄たちに続き[[ナポレオン戦争]]に加わることになった。
 
[[1815年]]に陸軍元帥になった。この年ロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]の親友として、皇帝と共に[[ロンドン]]を訪れた。この時[[摂政皇太子|摂政]][[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]]ジョージ(後の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])の一人娘[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]]王女に見初められ、[[5月2日]]に2人は結婚した。しかしシャーロットは[[1817年]][[12月5日]]に息子を死産した後、間もなく死去してしまった。レオポルトはその後も[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]に留まり、国から毎年5万ポンドの年金を給付されてしばらくは数々の趣味に没頭していた。