「小田切秀雄」の版間の差分

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[[1941年]]、『万葉の伝統』で注目されたが、[[1943年]]応召、[[1944年]]に[[荒正人]]や[[佐々木基一]]とのマルクス主義文学研究会が原因で再び治安維持法違反に問われ逮捕されたが、[[結核]]により勾留停止となり釈放。戦後、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の創刊に加わる。
 
戦時中は「少国民」に「キミガヨ」の「ありがたさ」を説いた翼賛的な作品を書いていたが<ref>今野敏彦・ 櫻本富雄『差別・戦争責任ノート』(八千代出版、1983年)</ref><ref>櫻本富雄『文化人たちの大東亜戦争──PK部隊が行く』(青木書店、1993年)p.153</ref>、[[1946年]]創刊の『文学時標』では「純粋なる文学の名において、かれら厚顔無恥な、文学の冒涜者たる戦争責任者を最後の一人にいたるまで、追求し(ママ)、弾劾し、読者とともにその文学上の生命を葬らんとするものである」<ref> 『文学時標』創刊号「発刊のことば」</ref>と謳い、毎号「文学検察」欄で戦争協力文学者を糾弾。このため、のちに「小田切は自分のことは棚に上げ、他の『戦争責任者』を追及しはじめた」と批判された<ref>[https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2426/JNK000201.pdf 前田均「住井すゑの戦争責任とその弁護者たち」]</ref>。[[1950年]]に[[三島由紀夫]]を共産党に勧誘するも断られる(後に人生で最も嬉しかった誘い話の1つと三島は振り返っ回顧しる<ref>三島由紀夫『実感的スポーツ論』</ref>)。
 
法政大学教授を務め、[[1965年]]学園紛争で学長と理事が総辞職した際[[総長]]代行を務めた。[[1975年]]、[[芸術選奨文部大臣賞]]に選ばれるが辞退。