「人文主義者」の版間の差分

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*[[16世紀]]初めにはイタリア・ルネサンスを代表する著作『[[君主論]]』([[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアベリ]])、『宮廷人』([[バルダッサーレ・カスティリオーネ|カスティリオーネ]])などが執筆された。
 
「源泉へ」という人文主義の原則<ref name="Roeck">ベルント・レック『歴史のアウトサイダー』中谷博幸、山中叔江訳 昭和堂 2001年、ISBN 4812200210 pp.27-28.</ref>に従って
旧約・新約聖書の本文について、[[ヘブライ語]]および[[ギリシア語]]原文にさかのぼっての研究も進められ、[[カトリック教会]]の公式なラテン語訳聖書とされていた[[ヴルガータ]]聖書の訳文に問題があることも知られるようになった。ギリシア語原文を読むことは聖書解釈の再検討、ひいてはカトリック批判につながるとして、問題視される場合もあった。
また、旧約聖書を突き詰めることで神的啓示を知ろうと、ユダヤ教の書物、[[カバラ]]や[[タルムード]]の研究が行われた<ref name="Roeck"/>。1510年代に改宗ユダヤ人のプフェファールコン及び[[ドミニコ会]]とドイツの人文主義者{{仮リンク|ヨハネス・ロイヒリン|en|Johannes Reuchlin}}のあいだでユダヤ教書物没収を巡る論争が起こり、多くの人文主義知識人がロイヒリンの側に立って闘った<ref name="Roeck"/>。
 
人文主義者の[[思想]]には、後の[[宗教改革]]に結びつく要素も見られ、既成の権威に反抗して弾圧を受けた人物も見られる。ただし人文主義者の多くは穏健な思想を持ち、ほとんどの場合カトリックの信仰を保っていた。学識によって宮廷に仕え、権力者のブレーンとして活動した人物も多かった。従って、カトリック側と宗教改革運動側の対立が激しくなると、人文主義者は渦中から身を引く場合が多かった。「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」と言われるように、宗教改革の初期、エラスムスはルターを支持していたが、まもなく両者は決別した。こうした点で人文主義者の限界が指摘されることもある。しかし、神や人間の本質・本道への理解と実践へ立ち返ることを求めた人文主義者が、[[フランス宗教戦争|ユグノー戦争]]に例を見るような、神の本質の理解と相容れがたい狂信的な宗教対立を忌むことは当然の帰着であり、むしろ人文主義者のそうした声が宗教改革において無視されたともいえる。