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[[File:Kisokaido12 Kuragano.jpg|thumb|280px|木曾街道六拾九次 倉賀野([[渓斎英泉]]画)]]
'''倉賀野宿'''(くらがのしゅく)とは、[[中山道六十九次]](木曽街道六十九次)のうち[[江戸]]から数えて12番目の[[宿場]]である。日光へ向かう[[日光例幣使街道]]が分岐している。かつては江戸時代、現在の[[烏川 (利根川水系)|烏川群馬県]]を利用した舟運搬の河岸があった。長さ11[[高崎市]][[倉賀野38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地だった]]に相当する
 
== 特徴概要 ==
[[ファイル:例幣使常夜灯.jpg|thumb|閻魔堂前の常夜灯]]
'''倉賀野宿'''(くらがのしゅく)とは、[[中山道六十九次]](木曽街道六十九次)のうち[[江戸]]から数えて12番目の[[宿場]]である。日光へ向かう[[日光例幣使街道]]が分岐している。かつては江戸時代、[[烏川 (利根川水系)|烏川]]を利用した舟運搬の河岸があった。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地だった。
現在の[[群馬県]][[高崎市]][[倉賀野町]]にあたる。
 
== 特徴 ==
[[ファイル:例幣使常夜灯.jpg|thumb|閻魔堂前の常夜灯]]
[[天保]]14年([[1843年]])の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち[[本陣]]1軒、[[脇本陣]]2軒、[[旅籠]]32軒で宿内人口は2,032人であった。[[明治16年]]に[[鉄道]]が敷設されるまでは、[[東京]]や[[信越]]方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった<ref>[{{NDLDC|939449/162}}  『選奨補習学校施設経営の実際』帝国農業教育研究会編 (帝国農業教育研究会, 1925) ]</ref>。
 
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[[Category:宿場]]
[[Category:高崎市の歴史]]
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[[Category:群馬県の交通史]]
[[Category:中山道]]
[[Category:日光例幣使街道]]
[[Category:上野国]]