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'''エミール・ヤニングス'''('''Emil Jannings''', [[1884年]][[7月23日]] - [[1950年]][[1月2日]])は[[ドイツ]]の俳優。[[第1回アカデミー賞]][[アカデミー主演男優賞|男優賞]]受賞。
 
== 来歴 ==
本名テオドール・フリードリヒ・エミール・ヤネンツ。1884年7月23日、[[スイス]]の{{仮リンク|ルシャ|en|Rorschach, Switzerland}}に中産階級の家に生まれる。父親はアメリカ人、母親はロシア系ドイツ人<ref>Roman Rocek: Die neun Leben des Alexander Lernet-Holenia. Eine Biographie. Böhlau, Wien u.a. 1997, ISBN 3-205-98713-6. S. 186</ref><ref>Frank Noack: "Jannings. Der erste deutsche Weltstar". Collection Rolf Heyne, München 2012</ref>。16歳には家出し船乗りになり、最後は大洋航路の調理人の助手になる。しかし幻滅して家に戻り、すぐに劇団に入る。18歳で彼はプロフェッショナルな舞台デビューを飾り、チューリヒとドレスデン地方の部隊で古典演劇を学ぶ。1906年ドイツ演劇の大御所[[マックス・ラインハルト]]に招かれ、ベルリンのドイツ劇場に出演、『[[ファウスト]]』の[[メフィストフェレス|メフィスト]]を演じた。この十年間でドイツの演劇史に残る俳優となる。
 
1914年には映画界に進むがお決まりの役柄しか回ってこなかったが、1919年には歴史劇や文芸作品で大いに名を挙げ、1920年代中頃には国際的にも知名度が上がり、『[[ヴァリエテ]]』(1924年)、『[[最後の人]]』(1925年)などの作品で多くの人々が世界的にも偉大な映画俳優として認めるようになる。
 
1927年米国の[[パラマウント]]映画と契約を結び、[[ハリウッド]]に移り、渡米第1作『[[肉体の道]]』(1927年)と第2作『最後の命令』(1928年)で初の[[アカデミー主演男優賞]]を獲得する。しかし、ひどいドイツ語訛りのため、急速な[[トーキー映画]]の進出で米国急速な波のなか、[[ドイツ語]]訛りが強かったヤニングスはアメリカでのキャリアを終えてしまざるを得なかった。
 
1929年、彼はドイツへ帰る。1930年、ドイツに渡ったハリウッドの新進監督[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]の手で『[[嘆きの天使]]』が作られた。この作品によって[[マレーネ・ディートリヒ]]とスタンバーグは、国際的に名をあげ、映画史上に一時代を築く。ヤニングスにとっても、この『嘆きの天使』は、彼の出演作品中最大のヒットとなった。だが、当時すでに評価の定まっていた彼にとっては、単なるヒット作の域を出ず、最後の輝きを放つものとなった。