「ピラミッド」の版間の差分

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==== 階段ピラミッド ====
[[ファイル:Saqqara BW 5.jpg|170px|thumb|right|ジェセル王の[[階段ピラミッド]]]]
[[階段ピラミッド]]はピラミッドの最初の形態で、[[紀元前27世紀]]、[[エジプト第3王朝|第3王朝]]時代[[サッカラ]]に、宰相[[イムホテプ]]が設計し、[[ジェセル]]王が築いた[[ジェゼル王のピラミッド]]がその始まりである。当初は日干し煉瓦による方形の[[マスタバ]]として建立されたが、後に煉瓦を積み上げて階段状の巨石建造物と成した。一度階段形態が完成した後も、追加して拡張が成された。完成時の寸法は東西約121m、南北約109m、高さ約60m。このピラミッドは後世に巨大な影響を及ぼし、以後はそれまでのマスタバにかわりピラミッドが王墓の主流の形式となった。
 
==== 屈折ピラミッド ====
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スネフェルは更に[[ダハシュール]]において、勾配約43度で、側面が[[二等辺三角形]]の'''[[赤いピラミッド]]'''を建造。これによっていわゆる'''真正'''(しんせい)'''ピラミッド'''の外形が完成した。スネフェルが1人で3つもピラミッドを築いている点から導かれる王墓説否定論に対しては、メイドゥームのピラミッドは勾配がきつすぎて崩壊、同様に屈折ピラミッドは一定の高さ以上にできなかったので挫折した妥協の産物でしかなく、最終的に43度のピラミッドが誕生した、という反論がなされてきた。
 
世界一高いピラミッドは、スネフェルの次の[[クフ]]王によって紀元前2560年頃に[[ギーザ|ギザ]]に築かれた[[ギザの大ピラミッド]]で、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。またこれは14世紀に[[リンカン大聖堂]]の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位の[[カフラー王のピラミッド]]もこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。この2つに隣接する[[メンカウラー王のピラミッド]]は何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5mである。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることから、縮小の理由は謎とされている。3つはギザの[[三大ピラミッド]]と呼ばれ、世界有数の観光地となっている。これらのピラミッドはもともとは表面に石灰岩の化粧板が施されており、(現在のような段状ではなく)傾斜のある滑らかな面でできた四角錐で、全体が白色に輝いていたのだが、遺跡を保護するという概念がなかった時代に、その化粧板が剥がされて[[カイロ]]市街地の舗装に使われてしまい、現在のような姿となった。化粧板は現在ではカフラー王のピラミッドの頂上辺りとギザのピラミッドの土台元に僅かに残っているのみである。
 
この[[三大ピラミッド]]および[[ナイル川]]の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は現在から1万500年前の[[天体]]の配置を模したものであるという説もある。すなわち、ナイルが[[天の川]]で、三大ピラミッドが[[オリオン座]]のベルト、即ち中央を横切る三つ星に相当、他のピラミッドも[[天体|星]]の位置に対応しそれを反映しているということである。三大ピラミッドのうち、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことについて説明する有力な説とも言われている。ただし、この説はエジプト考古学庁には認められてはいない。ピラミッド建造年代を定説通りとした場合、建造当時はエジプトではオリオン座は地平線すれすれの位置に見えていたはずで、それほど目立たないうえに、実際にオリオン座の三ツ星を模したならそのような記録があってもよいはずである。
 
==== 衰微 ====
クフ王の大ピラミッドを頂点として、その後それをしのぐピラミッドが建設されることはなかった。続く[[カフラー]]王および[[メンカウラー]]王の時代においては規模・技術ともにそれほど劣るものではないピラミッドが建設されており、この3つのピラミッドを総称して三大ピラミッドとも呼ばれるゆえんであるが、その後造営規模は縮小していった。続く[[エジプト第5王朝]]および[[エジプト第6王朝]]期においてもピラミッド建設は続けられるが、石材の代わりにレンガを代用したり、石積みの精緻さも劣るなど、ピラミッドの造営は衰微していった。その後エジプトは古王国期からエジプト第1中間期と呼ばれる混乱期に突入し、この時期にいったんピラミッドの造営は中断する。その後、南部のテーベの王朝が再統一を果たし[[エジプト中王国]]時代が始まるとピラミッドの造営は再開され、[[エジプト第12王朝]]の諸王によっていくつかのピラミッドが建設されるが、[[ラフーンのピラミッド]]や[[ハワーラのピラミッド]]などに代表されるこの時代のピラミッドには技術の衰退の跡が顕著に見られ、日干しレンガによって建造されたこれらのピラミッドは風化によって崩壊し、現代においては小山のような姿をとどめているに過ぎない。ただ一方で、葬祭殿の充実が進んでいったことから、エジプト人の価値観・宗教観の変化が指摘される。また、ピラミッドが王墓でないという説では、ピラミッドは葬祭用の施設の一部にすぎず、墓と合体させて作る場合もあるが、墓の本体ではないとする。その後ピラミッドは王朝の衰微とともに再び建造されなくなっていき、とくにピラミッド複合体は中王国時代をもって姿を消した。[[紀元前16世紀]]、エジプトを再統一し[[エジプト新王国]]時代を開いた[[エジプト第18王朝|第18王朝]]の[[イアフメス1世]]は[[アビドス]]に小さなピラミッドを建造したが、これがエジプトにおける王のための最後のピラミッドとなった。これ以後、王族は[[王家の谷]]などの墓地に埋葬されるようになり、大型のピラミッドが建造されることはなくなった。ただし、私人用の墓地に小さなピラミッド形のシンボルを作ることはその後も長く行われた
 
=== ピラミッドの建造 ===
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=== ヌビアのピラミッド ===
{{Main|ヌビアのピラミッド}}
エジプトにおいてピラミッドが建設されなくなったのちも、エジプト文化の影響を強く受けていた南の[[ヌビア]]においてはピラミッド建設が継続され、多数のピラミッドが残存している。
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは[[紀元前16世紀]]であるが、それから800年ほどたった[[紀元前8世紀]]に、エジプト文化の影響を強く受けていた南の[[ヌビア]]においてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラミッド建造開始は、[[ナパタ]]に都をおく[[クシュ]]王国の[[ピイ (ヌピア)|ピイ]]王がエジプトを征服し[[エジプト第25王朝]]を開いてからである。ピイ王は王家の墓地のあったエル・クッルに小型のピラミッドを建造し、以後の第25王朝の諸王もこの地にピラミッドを建造した。これらのピラミッドは底辺が10mほどの小型のものであり、礼拝堂が併設され、中の玄室には遺体が安置された。すなわち、ヌビアのピラミッドは諸説あるエジプトのものとは違い、明確に墓として建造されていた<ref>「図説ピラミッドの歴史」p111-112 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行</ref>。[[紀元前656年]]に第25王朝が[[アッシリア]]に敗れてエジプトを失陥しヌビアに撤退したのちも、ピラミッドの建造は続けられた。紀元前591年ごろに首都がナパタから[[メロエ]]へと遷都されると、ピラミッドはメロエにおいて建造されるようになった。このピラミッド建造は、メロエ王国が滅亡する紀元後[[4世紀]]まで、約1200年にわたりつづけられた。
 
== 中南米 ==