「第二次ポエニ戦争」の版間の差分

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ローマに帰国したスキピオは英雄として称えられた。スキピオは[[執政官]]に必要な年齢に達していなかったが、特例として[[紀元前205年]]の執政官に選出された。カルタゴとの戦争に決着をつけるため、スキピオは敵本土への直接攻撃を訴えたが、元老院はこれに難色を示した。ファビウスや[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス|大カト]]が反対派の急先鋒となり、結局元老院はこの提案を退けた。スキピオはシチリアに派遣され、その地で軍隊を徴募した。翌[[紀元前204年]]、スキピオは[[プロコンスル]](前執政官)として軍団を率い、北アフリカの[[ウティカ]]へ上陸した。
 
カルタゴ軍は[[ヌミディア]]軍と協同して迎撃に向かったが、スキピオはこれを一蹴した([[ウティカの戦い (紀元前203年)|ウティカの戦い]])。余勢を駆ったスキピオはヌミディアへ侵攻し、ヌミディア王[[シュファクス]]を捕縛([[キルタの戦い|キルタの戦い]])、自身の保護下にあったヌミディアの王子[[マシニッサ]]を王に即位させてアフリカにおける同盟国を得た。しかもそれは同時に屈強な騎兵をカルタゴから奪い取ることでもあった。カルタゴはイタリア半島のハンニバルを呼び戻して戦力を再編する一方で、ローマに休戦を打診した。ローマの元老院は申し出を了承したが、不測の事態が起きて交渉は決裂した。カルタゴはハンニバルに約50,000名の兵と80頭の[[戦象]]を率いさせて派遣し、スキピオも約40,000名の兵を率いてヌミディアからカルタゴへ兵を返した。[[紀元前202年]][[10月19日]]、両軍は[[ザマ]]の西方で対峙した。
 
ハンニバルは最初に[[戦象]]を突撃させたが、スキピオはこれを予測して部隊を配置していたため、突撃はほとんど威力を発揮しなかった。続いてハンニバルは騎兵を偽装後退させた。ヌミディアの協力を得たローマ軍は、騎兵戦力においてカルタゴ軍に勝っており、ハンニバルはこれを戦場から引き離そうとしたのである。この策は成功し、両軍の歩兵同士の正面衝突となった。カルタゴ軍は歩兵を3列に並べ、傭兵からなる前2列と戦って消耗したローマ軍に予備軍として正規兵からなる最精鋭の古参兵をぶつけるという作戦だった。しかし、カルタゴ軍前2列の歩兵は戦意が低く、後退する傭兵と正規兵との間で同士討ちが起こる有様であり、精強なローマ歩兵に圧倒された<ref name="出典1">塩野七生『ローマ人の物語ハンニバル戦記』</ref>。やむなくハンニバルは事前の予想より早く予備軍を投入したが、これも突破はできなかった。ここでカルタゴ騎兵を駆逐したマシニッサらのローマ軍騎兵が戦場に復帰、カルタゴ軍は包囲された。歩兵のおよそ半数が降伏し、降伏を拒否した者は殺戮された([[ザマの戦い]])。