「ブルーインパルス」の版間の差分

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また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており<ref name="2011-t-175"/>、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた<ref name="2011-t-175-176"/>が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており<ref name="2011-t-177"/>、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという<ref name="2011-t-178"/>。ところが、[[事故調査]]報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた<ref name="2006-b-88"/>ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになった<ref name="2011-t-167"/>。「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになってしまったのである<ref name="2011-t-179"/>。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落していたが<ref name="2011-t-201"/>、本来のルートの延長線上には住宅地や[[東名高速道路]]があったことから<ref name="2011-t-204"/>、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている<ref name="2011-t-205"/>が、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった<ref name="2011-t-194"/>ため、真相は不明である。
 
この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた<ref name="2006-b-88"/>。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった<ref name="2010-b-149"/>。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはかなかった<ref name="2006-b-88"/>。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ<ref name="2003-g-104"/>、安全対策を検討した結果<ref name="2003-g-104"/>、[[1983年]]10月30日の[[朝霞駐屯地]]における自衛隊[[中央観閲式|観閲式]]での展示飛行から活動を再開することになった<ref name="2003-g-104"/>。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された<ref name="2003-g-104"/>。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ<ref name="2006-b-88"/>、「下向き空中開花」の課目からの除外<ref name="2003-g-104"/>などを条件にして、[[1984年]]7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された<ref name="2003-g-104"/>。
 
==== 任期の問題 ====