「ルイ17世」の版間の差分

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'''ルイ17世'''(Louis XVII、[[1785年]] - [[1795年]][[6月8日]])は、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]とその妻[[マリー・アントワネット]]の次男で、フランス王太子。洗礼名により'''ルイ・シャルル'''とも呼ばれる。
 
出生と同時に[[ノルマンディー公|ノルマンディー公爵]]の爵位を受け、兄である[[ルイ・ジョゼフ]]が死亡したのちは、王太子となった。姉はアングレーム公爵([[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の息子)の夫人となり、フランス最後の王太子妃となる、[[マリー・テレーズ]]。父ルイ16世の死後、「'''フランス国民の国王'''」となった。
 
第二王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。しかし、[[フランス王国]]では[[絶対王政]]という[[制度]]がしだいに揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。4歳のとき兄が死亡し、わが子を亡くした悲しみからか、より母マリー・アントワネットの浪費が激しくなり、ついに[[7月14日]]の[[革命]]が引き起こされてしまう。[[ベルサイユ行進]]も起こり、国王一家は[[パリ]]に移る。身の危険を感じた国王一家は、2年後[[ヴァレンヌ逃亡事件]]を起こし、民衆によって[[タンプル塔]]に[[監禁]]される。このときルイ・シャルルは6歳だった。タンプル塔では家族と引き離され、靴屋のシモンという男が面倒を見る。しかし、虐待されていたとも言われており、ひどい扱いを受けていた。8歳のとき、父ルイ16世、母マリー・アントワネットが処刑される。ルイ16世が[[処刑]]されると、その弟(のちの[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]])ら[[反革命]]派によって、ルイ・シャルルは、フランスの新国王に指名され、ルイ17世と呼ばれた。しかし、[[フランス革命]]まっただ中のパリで監禁された身では、[[戴冠式]]を行うこともかなわず、もとよりルイ・シャルル本人が、フランス国王ルイ17世と呼ばれていることさえ知る由もなかった。
[[1795年]]、タンプル塔の一室で、ルイ17世が病死しているのが見つかった。享年わずか10だった。
 
しかし、ルイ17世の遺体は、明らかに15歳くらいの少年のものであったため、「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という説も出された。そして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが後を絶たなかった。なかでも、ドイツに現れた、シャルルギヨーム・ノンドルフという人物は有名だが、[[DNA鑑定]]の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。[[2000年]]4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体の心臓のDNA鑑定がされた。その結果は「タンプル塔の遺体は、ルイ17世のものに間違いない」とのことだった。しかし遺体は損傷が激しく、今となっては真偽のほどはわからない。<br>
[[2000年]]4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体の心臓のDNA鑑定がされた。その結果は「タンプル塔の遺体は、ルイ17世のものに間違いない」とのことだった。しかし遺体は損傷が激しく、今となっては真偽のほどはわからない。
 
 
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