「マリア・ルイーザ (パルマ女公)」の版間の差分

 
=== 夫の没落とパリ脱出 ===
しかし、[[1812年]]にナポレオンは[[ロシア遠征]]に失敗し、[[1813年]]の[[ライプツィヒの戦い]]でもナポレオンは大敗する。<br>
しかし、[[1812年]]にナポレオンは[[ロシア遠征]]に失敗し、[[1813年]]の[[ライプツィヒの戦い]]でもナポレオンは大敗する。[[1814年]]にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク[[将軍]]・[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヒャー]]将軍・かつてのナポレオンの部下だった[[スウェーデン]]王太子の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン・=バティスト・ジュール・ベルナドット]]将軍・[[イギリス]]の[[ウェリントン公アーサー・ウェルズリー|ウェリントン公]]による大規模なナポレオン包囲網が築かれつつあり、さらにナポレオンと帝国は苦境に追い込まれていった。
 
ついにマリア・ルイーゼのいる[[テュイルリー宮殿]]では、[[ロシア帝国|ロシア]]・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍の[[パリ]]襲撃に備え、彼女とローマ王の処遇を巡り議論が始まった。<br>
ついにマリア・ルイーゼのいる[[テュイルリー宮殿]]では、[[ロシア帝国|ロシア]]・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍の[[パリ]]襲撃に備え、彼女とローマ王の処遇を巡り議論が始まった。サヴォリ警務大臣は、皇后が[[首都]]を離れる事は帝国崩壊にも等しく、反乱を避けるためにも彼女とローマ王はパリに留まるべきだと主張し、カンバセレス大法官と[[タレーラン・ペリゴール|タレーラン]]もこの意見に賛同した。しかし陸軍大臣クラルクは、万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべきだと主張した。その間、マリア・ルイーゼは一言も発する事なくひたすら議論に耳を傾けていた。議論は堂々巡りを繰り返し、真夜中になっても結論が出ず、ついに[[投票]]に持ち込まれた。その結果、マリア・ルイーゼはローマ王と共にパリに留まる事になった。だがその時、今まで沈黙を保ち、投票も棄権したナポレオンの兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]が立ち上がり、前もってナポレオンから受け取っていた声明文を読み上げた。その内容は「不幸にも、万が一戦いに敗れるような事が生じた場合、皇后とローマ王を速やかにパリから[[ランブイエ]]に移し、けっして敵の手に渡す事がないように万全を尽くすべし」というものだった。それを聞いたマリア・ルイーゼは、この[[命令]]には断固反対した。そして「パリを明け渡す事は、[[ブルボン家|ブルボン王朝]]復活に絶好の機会を与える事になります。私はこのままパリに留まる事こそ、皇帝不在中[[摂政]]を任されたフランス皇后としての務めだと思っています」と主張した。この時マリア・ルイーゼは、父のフランツ2世を通して、ロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]およびプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]を説得し、ローマ王をナポレオン2世として即位させる可能性を信じていたのである。
サヴォリ警務大臣は、皇后が[[首都]]を離れる事は帝国崩壊にも等しく、反乱を避けるためにも彼女とローマ王はパリに留まるべきだと主張し、カンバセレス大法官と[[タレーラン・ペリゴール|タレーラン]]もこの意見に賛同した。しかし陸軍大臣クラルクは、万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべきだと主張した。その間、マリア・ルイーゼは一言も発する事なくひたすら議論に耳を傾けていた。議論は堂々巡りを繰り返し、真夜中になっても結論が出ず、ついに[[投票]]に持ち込まれた。その結果、マリア・ルイーゼはローマ王と共にパリに留まる事になった。<br>
ついにマリア・ルイーゼのいる[[テュイルリー宮殿]]では、[[ロシア帝国|ロシア]]・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍の[[パリ]]襲撃に備え、彼女とローマ王の処遇を巡り議論が始まった。サヴォリ警務大臣は、皇后が[[首都]]を離れる事は帝国崩壊にも等しく、反乱を避けるためにも彼女とローマ王はパリに留まるべきだと主張し、カンバセレス大法官と[[タレーラン・ペリゴール|タレーラン]]もこの意見に賛同した。しかし陸軍大臣クラルクは、万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべきだと主張した。その間、マリア・ルイーゼは一言も発する事なくひたすら議論に耳を傾けていた。議論は堂々巡りを繰り返し、真夜中になっても結論が出ず、ついに[[投票]]に持ち込まれた。その結果、マリア・ルイーゼはローマ王と共にパリに留まる事になった。だがその時、今まで沈黙を保ち、投票も棄権したナポレオンの兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]が立ち上がり、前もってナポレオンから受け取っていた声明文を読み上げた。その内容は「不幸にも、万が一戦いに敗れるような事が生じた場合、皇后とローマ王を速やかにパリから[[ランブイエ]]に移し、けっして敵の手に渡す事がないように万全を尽くすべし」というものだった。それを聞いたマリア・ルイーゼは、この[[命令]]には断固反対した。そして「パリを明け渡す事は、[[ブルボン家|ブルボン王朝]]復活に絶好の機会を与える事になります。私はこのままパリに留まる事こそ、皇帝不在中[[摂政]]を任されたフランス皇后としての務めだと思っています」と主張した。この時マリア・ルイーゼは、父のフランツ2世を通して、ロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]およびプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]を説得し、ローマ王をナポレオン2世として即位させる可能性を信じていたのである。
 
しかし、ついに1814年の[[3月29日]]の朝、マリア・ルイーゼとローマ王は10台の大型[[馬車]]でランブイエに向けて発つ事になった。しかし、ランブイエにも既に危険が迫っている事がわかり、マリア・ルイーゼ一行は、さらに遠いロアール川の方にあるブロワ城に向かってさらに進んだ。城に着いたのは、[[4月2日]]の夜中だった。
 
それから6日後の[[4月8日]]に、マリア・ルイーゼは夫が[[フォンテーヌブロー]]宮殿で退位した知らせを受け取った。ナポレオンがいるフォンテーヌブロー宮殿が、自分のいるブロワ城からそれほど遠くないとわかった時、彼女は直ちに馬車を用意させ、ナポレオンの許へと向った。しかし、その道中[[ジャン・ランヌ]]元帥の未亡人であるモンテベロ夫人は、ナポレオン皇帝が国を失った今となっては、せめてマリア・ルイーゼとローマ王の今後だけでもフランツ皇帝に嘆願して保証してもらうようにと、執拗に助言し続けた。モンテベロ夫人は、[[エルバ島]]行きなどまっぴらごめんだと思っていた。宮廷の心地よい生活を知った彼女は、地位を失ったナポレオンへの忠誠などさっさと捨て、ブルボン側に付いて甘い汁を吸う事しか考えていなかった。[[オルレアン]]に着くと、マリア・ルイーゼはナポレオンに宛てて「今すぐにはあなたの所に行かない事にしました。まず父に会おうと思うのです。エルバ島でのあなたの待遇改善と、私達の息子のために[[トスカーナ州|トスカーナ]]地方を要求するためです。もし、今あなたが父に会いに行く事を許してくださるのなら、きっとトスカーナを手にいれる事ができると思うのです。善良な父は私の涙に感動し、きっとあなたの運命も変わる事でしょう」と手紙を書いた。しかし、当然フランツ2世は娘の訴えなど聞く気はなかった。彼も[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]も、マリア・ルイーゼをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたに過ぎなかった。そしてトスカーナ地方は元の統治者である、マリア・ルイーゼの祖父の、神聖ローマ帝国皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の次男フェルディナンド大公に返還し、マリア・ルイーゼのためにはパルムの統治権をと考えていたのである。その後[[4月12日]]に、モンテベロ夫人の意を受けたと思われるフランツ2世の使者を名乗る人物が、突然マリア・ルイーゼの所にやってきて、半ば強制的に彼女とローマ王を連れて行ってしまった。この夜、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおった。<br>
しかし、当然フランツ2世は娘の訴えなど聞く気はなかった。彼も[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]も、マリア・ルイーゼをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたに過ぎなかった。そしてトスカーナ地方は元の統治者である、マリア・ルイーゼの祖父の神聖ローマ帝国皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の次男フェルディナンド大公に返還し、マリア・ルイーゼのためにはパルムの統治権をと考えていたのである。<br>
その後[[4月12日]]に、モンテベロ夫人の意を受けたと思われるフランツ2世の使者を名乗る人物が、突然マリア・ルイーゼの所にやってきて、半ば強制的に彼女とローマ王を連れて行ってしまった。この夜、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおった。
 
=== ナイペルク伯 ===
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