「河東の乱」の版間の差分

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戦国期の東国において、駿河の[[守護大名]]の今川氏と、相模の新興[[戦国大名]]であった北条氏は、[[駿相同盟]]を結び[[甲斐国]]の[[武田氏]]と抗争していた。しかし、今川氏では[[今川氏輝|氏輝]]期に武田と和睦し、さらに後継者争いの[[花倉の乱]]を制し、天文5年([[1536年]])に当主となった[[今川義元]]は翌天文6年2月に甲斐国守護[[武田信虎]]の娘である[[定恵院]]を正室に迎え、[[甲駿同盟]]が強化された。
 
北条氏は甲相国境において武田方と抗争していた<ref>武田氏は関東地方において北条氏と敵対していた扇谷上杉家と同盟関係にあったため、武田信虎は扇谷上杉家の要請を受けてたびたび北条領に侵攻していた。</ref>ため、甲駿同盟の成立を駿相同盟の破綻とみなした北条家当主の[[北条氏綱|氏綱]]は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は[[富士川]]以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、今川家の継承権争いで義元と反目していた[[遠江国|遠江]](静岡県西部)の[[堀越氏]](氏綱娘が[[堀越貞基]]室)、[[井伊氏]]等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎は義元に援軍を送ったものの河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。
 
天文10年には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の[[武田信玄|晴信]](信玄)が当主となり[[信濃侵攻]]を開始する。相模でも氏綱が死去し[[北条氏康|氏康]]が家督を継承。氏康は河東における今川氏との対峙と平行して北関東への進出を企図し、利害が一致した武田北条間で[[甲相同盟]]が成立している。