「ジョーゼフ・E・レヴィーン」の版間の差分

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== 人物 ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年4月|ソートキー=人1987年没}}
[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]出身。彼の設立したインディペンデント映画会社[[エンバシー・ピクチャーズ]]は、『[[ヘラクレス (1958年の映画)|ヘラクレス]]』、『[[大いなる野望]]』、『ハーロ』、『[[冬のライオン]]』、『[[卒業 (1967年の映画)|卒業]]』、『[[遠すぎた橋]]』といった映画の製作と配給を行ってきた。
 
1959年に公開された『[[ヘラクレス (1958年の映画)|ヘラクレス]]』から始まった映画業界における大々的な宣伝手法を確立した人物としてよく知られている。彼はまた、アメリカに『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』を持ち込んだきっかけとなった人物でもある。ラヴィーンは『霧の夜の戦慄』において、音楽に[[ピート・ルゴロ]]を採用し、全体の映像を白黒にしながら流血シーンだけ赤くするという手法をとった。ラヴィーンは、かつて1920年代後半から1930年代にかけて[[RKO]]で『キングコング』などの宣伝を行ったテリー・ターナーを雇った<ref>{{PDFlink|http://etheses.nottingham.ac.uk/549/1/Complete_Thesis.pdf}}</ref>。ラヴィーンとターナーによる宣伝は一般大衆だけでなく、映画業界や映画館主たちに対しても行われた。
 
1964年、長年の功績が認められ [[ゴールデングローブ賞]][[セシル・B・デミル賞]]を受賞。