「八重山地震」の版間の差分

復興
(復興)
 
対して[[琉球大学]]理学部の中村衛は、[[石垣島]]と[[多良間島]]の中間に位置する[[断層#正断層|正断層]](仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し<ref name="1771yaeyama"/>、シミュレーションの結果から、マグニチュードを7.5と見積もっていた。しかし、更なるシミュレーションの結果、[[琉球海溝]]内の断層の活動により、深さ6km、''M''8程度の[[津波地震]]が起こった可能性が高いとしている<ref>[http://seis.sci.u-ryukyu.ac.jp/hazard/EQ/1771yaeyama2/1771tsunami_2.html 1771年明和津波(八重山地震津波)はモーメントマグニチュード8の海溝型巨大地震であった] 琉球大学理学部 中村衛研究室</ref>。阿部勝征(1999)は、津波マグニチュード''M''t8.5と推定している<ref name="Abe1999">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/52/3/52_3_369/_article/-char/ja/ 阿部勝征(1999)] 阿部勝征(1999): 遡上高を用いた津波マグニチュードMtの決定 -歴史津波への応用-, 地震, 第2輯, 第52巻, 369-377.{{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/52.369}}</ref><ref name="Abe">阿部勝征 「津波地震とは何か」『月刊地球』Vol.25, No.5, p340</ref>。中村衛(2014)はMw8.7程度のプレート境界地震とするのが妥当としているが、分岐断層や海底地すべりの可能性も考慮すべきだろうとしている<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2014/session/PDF/S-SS34/SSS34-P27.pdf 中村衛(2014)]}} 中村衛(2014): 1771年八重山津波の断層モデルの再検討, 日本地球惑星科学連合2014年大会講演要旨,SSS34-P27.</ref>。
 
東北大学遠藤和久准教授らが奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られていた。過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けら、そた<ref>「南西諸島より北過去2300年 全域襲う津波生せず」遠藤和久東北大学准教授見されど。読売新聞2013年9月22日15面</ref>かった<ref>[http://geology.gsapubs.org/content/early/2013/09/06/G34823.1.abstract Localized tsunamigenic earthquakes inferred from preferential distribution of coastal boulders on the Ryukyu Islands, Japan] Geology, September 6, 2013, {{doi|10.1130/G34823.1}}</ref>。地震による津波の範囲が限定的であったことが明確となり、過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けられた<ref>「南西諸島で過去2300年 全域襲う津波発生せず」『読売新聞』2013年9月22日15面</ref>。
 
=== 波源域 ===
松本(1992-1993)らは<ref>松本剛、木村政昭:[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/45/4/45_4_417/_article/-char/ja/ 1771年八重山地震津波発生域における精密地形調査と津波発生のメカニズムに関する一考察] 地震 第2輯 Vol.45 (1992-1993) No.4 P417-426</ref>海底音響探査により海底地すべりを発生させた可能性が高い地形を発見し、北緯23度55分 - 24度00分、東経124度10分 - 124度20分付近と北緯23度40分、東経124度30分付近の2箇所が波源域であった可能性が高いとしている。
 
== 歴史名称 ==
[[1771年]]は[[琉球暦]]が使われており[[乾隆]](けんりゅう)<ref group="注">当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)が、沖縄は第二尚氏王統第14代[[尚穆王]]が治める王政であり、中国[[清]]の高宗[[乾隆帝]]の[[元号]]を用いていた。</ref> 36年卯歳だったため、従来は'''乾隆大津波'''又は'''八重山大津波'''と呼ばれていた。しかし、当時([[1609年]]〜[[1879年]])は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)。ため、牧野清昭和43[[1968(1968年)]]に著した八重山の明和大津波<ref name=makino1968 />で日本暦に直されてで呼んでから明和の大津波と呼ばれるようになった<ref name="bo-sai" />。
 
== 被害 ==
{{see|津波石}}
 
== 名称復興 ==
琉球王朝は被害地域の復興のため、被害の大きかった地域に、他の島から入植させる政策を取った。最も被害が大きかった白保村には[[波照間島]]から418人、隣接する宮良村には[[小浜島]]から320人の島民が移り住んだ。
[[1771年]]は[[琉球暦]]が使われており[[乾隆]](けんりゅう)<ref group="注">当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)が、沖縄は第二尚氏王統第14代[[尚穆王]]が治める王政であり、中国[[清]]の高宗[[乾隆帝]]の[[元号]]を用いていた。</ref> 36年卯歳だったため乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていた。当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)。牧野清氏が昭和43年(1968年)に著した「八重山の明和大津波」<ref name=makino1968 />で日本暦に直されてから明和の大津波と呼ばれるようになった<ref name="bo-sai" />。
 
もともと違う[[方言]]を話していた地域から移り住んだため、これらの地区の方言、風習、芸能には[[21世紀]]になっても石垣市街の中心部とは違いが見られる。また、移住者は自分たちのために[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]と呼ばれる祈祷の場を新たに設けたため、村内に複数の御嶽が存在する。
 
== 伝説 ==
[[石垣島]]の[[白保]]村では、この大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で[[人魚]]を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は[[於茂登岳]]に避難し、信じない人々は村に残るという決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で[[白保村]]を再興、現在に至ると伝えられる。
 
下地島の[[通り池]]にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている([[通り池#伝説]]参照)。
 
[[宮古列島]][[下地島]]の[[通り池]]にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている([[通り池#伝説]]参照)。
== 歴史 ==
奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られていた。過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けられた<ref>「南西諸島で過去2300年 全域襲う津波発生せず」遠藤和久東北大学准教授など。読売新聞2013年9月22日15面</ref><ref>[http://geology.gsapubs.org/content/early/2013/09/06/G34823.1.abstract Localized tsunamigenic earthquakes inferred from preferential distribution of coastal boulders on the Ryukyu Islands, Japan] Geology, September 6, 2013, {{doi|10.1130/G34823.1}}</ref>。
 
== 脚注 ==