「カスパー・ハウザー」の版間の差分
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==歴史的な情報==
[[1828年]][[3月26日]]、ドイツの[[ニュルンベルク]]の町
少年が携えていたニュルンベルク駐屯の第六軽騎兵隊の第四中隊の大尉フリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒに宛てた手紙には、同様にカスパーというファーストネームがでていた。他にもこの手紙には、 彼の知的レベルは、彼について数多くの検査をし
彼の養育者で保護者であった法学者[[パウル・ヨハン・アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハ]]は、次のように書き残している。カスパーは、当初、肉や牛乳を食べると吐いていて、パンと水だけを採ることができた、と。フォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。このような特別な人間について書いた数多くの伝記には、彼は生まれながらにして人間らしさを失った獣で暗い小部屋で、外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされていた、とある。 こうしたことは、人が彼をセンセーショナルな事件に熱狂した民衆の前にお披露目した際に、この若者が光と騒音によって経験した実に痛々しい事件の説明となるものである。
この残忍な仕打ちがおこなわれたであろう地下牢は、ニュルンベルグの市の範囲に今では併合されているノイマルクトの区域にあったのではないかと推測されている。<br> 彼の出自に関する謎は、今日に至ってもまだ解明はされていない。 彼の早すぎる死の背景にも尋常ではないものがある。彼はアンスパッハの王宮庭園で暗殺の魔の手に倒れたのである。<br>
アンスパッハの法医学者[[クリスティアン・ヴィルヘルム・アルベルト]]博士は、その同僚、[[クリストフ・コッペン]]博士と共に法医学解剖を担当した。加えて、医師の[[ヨハン・カール・フォン・ホーアラッヒャー]]博士と[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハイデンライヒ]]博士が、専門的なオブザーバーとして招かれていた。<br> 法医学者のアルベルトとコッペンの証言によれば、彼は[[1833年]][[12月17日]]の死を招くことになった刺傷が元で亡くなったということになっている。同様に、かなり謎めいた告白の文書が発見されている。 「ハウザーについて私がどう見ていたか、どこから知ったのか正確にみなさんにお話しすることができる。ハウザーの手を煩わせることもなく、私は
またハウザーは、前回と今回の二つの暗殺事件を正確に描写することが出来た。刺傷が致命傷となり、[[1833年]][[12月17日]]の午後10時頃、カスパー・ハウザーは死亡している。バイエルン国王[[ルートヴィヒ1世]]が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけたが、犯人につながる情報は出てこなかった。
2年と少しばかり後になって
このフランス製のシーフナイフは、[[1926年]]ニュルンベルクで開催された警察展示会に出品展示された。そ == 伝説といわゆるハウザー研究 ==
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