「カスパー・ハウザー」の版間の差分

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==歴史的な情報==
[[1828年]][[3月26日]]、ドイツの[[ニュルンベルク]]の町今日でもまだ同じ名前ウンシュリットプラッツ(Unshlittplatz)8(Unshlittplatz)8に16歳くらいと思われるぼんやりとした少年が立っていた。気付いた人がに訊ねたが、ほとんど口を利くこともできなかった。しかたなく人はそこで彼を警察に連れて行った。そこで紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」(Kaspar(Kaspar Hauser)Hauser)という名前を書いて見せた。<br>
少年が携えていたニュルンベルク駐屯の第六軽騎兵隊の第四中隊の大尉フリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒに宛てた手紙には、同様にカスパーというファーストネームがでていた。他にもこの手紙は、また少年の誕生日を[[1812年]][[4月30日]]と記していた。
 
彼の知的レベルは、彼について数多くの検査をし正しい言葉を教えようとした法学者、神学者、教育学者たちの関心を惹き起こし、彼はまた宗教哲学者[[ゲオルグ・ヨハン・ダウマー]]の元で読むことと書くことを学んだ。<br>
彼の養育者で保護者であった法学者[[パウル・ヨハン・アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハ]]は、次のように書き残している。カスパーは、当初、肉や牛乳を食べると吐いていて、パンと水だけを採ることができた、と。フォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。このような特別な人間について書いた数多くの伝記には、彼は生まれながらにして人間らしさを失った獣で暗い小部屋で、外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされていた、とある。
 
こうしたことは、人が彼をセンセーショナルな事件に熱狂した民衆の前にお披露目した際に、この若者が光と騒音によって経験した実に痛々しい事件の説明となるものである。ハウザカスパーの感覚器官は、過度に鋭敏で、彼の筋肉も充分な発達を遂げていなかった。<br>
この残忍な仕打ちがおこなわれたであろう地下牢は、ニュルンベルグの市の範囲に今では併合されているノイマルクトの区域にあったのではないかと推測されている。<br>
彼の出自に関する謎は、今日に至ってもまだ解明はされていない。
 
彼の早すぎる死の背景にも尋常ではないものがある。彼はアンスパッハの王宮庭園で暗殺の魔の手に倒れたのである<br>
アンスパッハの法医学者[[クリスティアン・ヴィルヘルム・アルベルト]]博士は、その同僚、[[クリストフ・コッペン]]博士と共に法医学解剖を担当した。加えて、医師の[[ヨハン・カール・フォン・ホーアラッヒャー]]博士と[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハイデンライヒ]]博士が、専門的なオブザーバーとして招かれていた。<br>
法医学者のアルベルトとコッペンの証言によれば、彼は[[1833年]][[12月17日]]の死を招くことになった刺傷が元で亡くなったということになっている。同様に、かなり謎めいた告白の文書が発見されている。
 
「ハウザーについて私がどう見ていたか、どこから知ったのか正確にみなさんにお話しすることができる。ハウザーの手を煩わせることもなく、私は・・・………バイエルンの国境の・・・………川のほとりの・・・………から着ました。私は、私の名前も申し上げておくつもりです。: M. L. Ö.」
 
またハウザーは、前回と今回の二つの暗殺事件を正確に描写することが出来た。刺傷が致命傷となり、[[1833年]][[12月17日]]の午後10時頃、カスパー・ハウザーは死亡している。バイエルン国王[[ルートヴィヒ1世]]が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけたが、犯人につながる情報は出てこなかった。
 
2年と少しばかり後になって漸く、王宮庭園で刃渡り14cmくらい全長30cmほどのダマスクス刃の(刃身が波刃になっている)諸刃の短剣が発見された。この短剣の刃とカスパーの刺し傷とぴったり一致するという。<br>
このフランス製のシーフナイフは、[[1926年]]ニュルンベルクで開催された警察展示会に出品展示された。それはの後もアンスパッハの博物館に保管されていたが、[[1945年]]の終戦以来行方不明になっている。
 
== 伝説といわゆるハウザー研究 ==