「カスパー・ハウザー」の版間の差分
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== 伝説といわゆるハウザー研究 ==
カスパーの存命中から既に彼の出自についてはさまざまな風評が飛び交っていた。<br>
カスパーの存命中から既に彼の出自についてはさまざまな風評が飛び交っていた。アンセルム・フォン・フォイエルバッハは、カスパーがバーデン大公家の世継であり、世継問題の事情によりその誕生以来、死産の子どもと取替え、隠匿されていたものと確信していた。それに対して、ローレ・シュヴァルツマイヤー(下記の文献リストを参照のこと)は、そのような隠匿は、大公の経済事情を考えれば到底不可能なことで、そんなことをしようとすれば、子どもの保護監督に、直接なにくれとなく面倒を見る子守りの女の子に、2人の侍医、当然のことながら乳母とて必要だったはずではなかろうかと反論する。▼
アンセルム・フォン・フォイエルバッハは、カスパーがバーデン大公家の世継であり、世継問題の事情によりその誕生以来、死産の子どもと取替え、隠匿されていたものと確信していた。<br>
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ウーリケ・レオンハルト(文献リストを参照)は、 これに対し取り替えを有り得ることとし、祖母は出産の際にずっと常にその場にいたわけではなかったこと、――ということは、祖母自身がその孫を取替え、あとから呼ばれてきた医師は、それ以前に子どもを目にしておらず、いきなり死んだ子を見せられたにすぎないということを意味しているという。これらの決着は、バーデン大公家が今日に至るまでその一族の記録文書収蔵庫の閲覧を拒んできているので、すべては未解明のままである。
遺伝子情報の分析の手助けを得ても、
[[2002年]]、ヴェストファリア・ヴィルヘルム大学([[ミュンスター大学]]) の法医学研究所が、
この結果、科学者たちの出した結論は、ベルント・ブリンクマン博士の言葉によれば、「現在までの時点では、カスパー・ハウザーがバーデン家の生物学的な近親者であるという結論を出してしまうのはいまだ早計であるといわざるを得ない。」ということになった。
加えて、ここに到って、パンツに付着していたという血痕が、DNA鑑定の結果、髪の毛のそれと一致せず、血痕は
もちろん、だからといってそれが何かを証明するわけではない。大多数の点で一致するものの、3点においてズレがあり、遺伝子解析の対象となったカスパーのものとされているものが、本当に彼に由来するものであるかどうかという点も、当然のことながら疑いは払拭されているわけではないからである。
今日に到るまでバーデン家は、そのプフォルツハイムの場内教会の立ち入り調査を阻んでいる。そこには[[1812年]]に乳児として亡くなった世継の王子の遺骨が埋葬されている。それが本当にバーデン家の世継なのか、取り替えられた身分の低い子なのか証明するようなDMA鑑定はまだなされていない。
世継説にはなお第二の仮説がある。ステファニー・ド・ボアルネは、[[ナポレオン・ボナパルト]]の妃[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]の姪で、実に不幸な結婚生活を送った人である。ナポレオンは、[[1799年]]彼女をパリに連れ帰り、政治的な理由により[[1806年]]自分の養子にし、それと同時に彼女のために「フランスの娘」という称号を新設した。これはバーデン家と対等の身分での結婚を演出するためである。
バーデン大公家の世継カール・フォン・バーデンは、当初放蕩無頼の独身者のような生活をそのままに引きずっていたため、ナポレオンは[[1810年]]その祖父[[カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒ]]に向けて公式に不快の念を書面にして通告した。夫は即座に和解したものの、[[1811年]]12月ロシアとの戦争の勃発の直前、ナポレオン・ボナパルトのお気に入りと出会ったのではないかといわれている。
[[ナポレオン2世]]との間にカスパーにも似た状況の子が生まれた。その子は、カスパーの生まれる寸前に若くして死亡しているが、鼻と上唇の間や顎、額の髪の毛などがよく似ている。大公妃の姦通による子どもというのは、バーデン大公家にとっても、実の父親にとってもとんでもない厄介ごとであったろうと思われる。
もし歴史が全くの想像力で片付けてよいものなら、カスパー・ハウザーは彼が思い出すという通りに、その幼児期はお城で暮らし、ナポレオンが失脚して後、いずこかへ匿われたのもそのためだとして説明がつくことだろう。幾人かは、だからこそその良心の責めに耐えかねた人間が、あの注目に値するボトルメールで助けを乞う手紙を書いたのではないだろうかと推測している。これは、恐らくは[[1816年]]9月にライン川上流で見つかったものといわれる。
それには、「"…私は、ラウフェンブルクの近くのある地下牢に囚われている。…この地下牢は、地面の下にあり、私の王位を奪ったものにも知られていない…」とあった。この地名の記述に拠るなら、上ライン地方のボイゲン城が、囚人とされる人物の最初の居場所だったと思われる。<br>
王位の簒奪ということでは、バーデンの大公位もフランスの玉座もそれには当たらない。カール大公は[[1818年]]に死去しているし、それ以前にはだれも彼の「王位を簒奪」していないからであり、ナポレオンの子、後のナポレオン2世は、[[1816年]]にはまだ存命で、非嫡出子は当時一切の相続から根本的に締め出されていたからである。――こうして我々は、哀れなカスパーが奪われたとする第3の王座の可能性を考えなくてはならなくなる。
加えて、このボトルメールを
とはいえ、19世紀にはおおよそ似たような玩具の馬は遊び盛りの子どもたちに子どもの数と同じくらい数多く与えられているのであるし、衣服のきれっぱしも正確な調査分析に委ねられたとはとても言えない。
[[1982年]]の改装工事の際には、瓦礫の下からもうこれ以上、好奇心を煽り立てるようなものは出てこなかった。想像するに[[ナポレオン戦争]]当時、この館には少なくとも戦災孤児の
==文学的な影響==
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