「エルヴィン・ロンメル」の版間の差分

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[[Image:AKrommel.jpg|thumb|250px|Erwin Rommel 装甲兵大将, 1941]]'''エアヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''('''Erwin Johannes Eugen Rommel'''、[[1891年]][[11月15日]] - [[1944年]][[10月14日]])は、[[第二次世界大戦]]中最も有名な[[ドイツ]]軍人の一人。中産階級出身の陸軍[[元帥 (ドイツ)|元帥]]。[[ドイツアフリカ軍団]]時代に彼は'''砂漠の狐'''と仇名され、英軍に「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」とまで言わしめた。<br>
[[ドイツアフリカ軍団]]時代に彼は'''砂漠の狐'''と仇名され、英軍に「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」とまで言わしめた。
 
ロンメルは捕虜に対して国際法を遵守して非常に丁重であった。捕虜となった[[デズモンド・ヤング]][[准将]]は戦後ロンメルの伝記を著作するまでも心酔しているおり、またその著作は映画化された(邦題:砂漠の鬼将軍)。1941年にロンメル暗殺を企図して砂漠のドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱った。以後もコマンド部隊の殺害を命じたヒトラーのコマンド命令を無視していた。国際法の遵守を最後まで通し抜いた彼の騎士道精神は賞賛されるべきであり、英国の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相に「ロンメルは聖者だ」と言わしめた程である。<br>
1941年にロンメル暗殺を企図して砂漠のドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱った。以後もコマンド部隊の殺害を命じたヒトラーのコマンド命令を無視していた。国際法の遵守を最後まで通し抜いた彼の騎士道精神は賞賛されるべきであり、英国の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相に「ロンメルは聖者だ」と言わしめた程である。
 
また、彼は幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に自身が軽飛行機に搭乗して敵情を偵察したり、宣伝大臣[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]からプレゼントされたカメラを愛用して多くの戦場写真を残した。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きで、欧州やアフリカで数千枚の写真を残した。同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。彼自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。
 
==生い立ち==
ロンメルは、ドイツ南部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の[[ウルム]]から約50kmに在る小さな町ハイデンハイムで[[プロテスタント]]系の高等学校々長のエアヴィン・ロンメル(シニア)とヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。ロンメルには二人の兄弟カールとゲアハルトと妹ヘレンがいた。彼は後に幼年期を回想し「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルにはエンジニアになる希望があったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、[[1910年]]に[[ヴュルテンベルク王国]]の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国の[[ダンツィヒ]]王立士官学校に送られた。<br>
ロンメルには二人の兄弟カールとゲアハルトと妹ヘレンがいた。彼は後に幼年期を回想し「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルにはエンジニアになる希望があったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、[[1910年]]に[[ヴュルテンベルク王国]]の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国の[[ダンツィヒ]]王立士官学校に送られた。
 
ロンメルは[[ダンツィヒ]]の士官学校時代の[[1911年]]にルーシー・モリンに出会い、[[1916年]]に結婚する。[[1928年]]に息子のマンフレートが生まれ、マンフレートは戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めた。ロンメルは士官学校を1911年11月に卒業し、1912年1月に[[少尉]]として任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが[[1912年]]にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたと研究発表している。<br>
[[1928年]]に息子のマンフレートが生まれ、マンフレートは戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めた。<br>
 
1911年11月、ロンメルは士官学校をに卒業し、1912年1月に[[少尉]]として任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが[[1912年]]にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたと研究発表している。
 
[[第一次世界大戦]]中にロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し、三度の負傷で一級および二級[[鉄十字|鉄十字章]]を授章した。さらに彼はイタリア北東部の山岳戦で多くの捕虜を取る著しい功績を挙げ、[[1917年]]12月に最高位勲章[[プール・ル・メリット勲章]]を授章し、その年の最年少授章者となった。[[1915年]]に彼は[[中尉]]に昇進した。
 
第一次大戦後、[[ヴェルサイユ条約]]により10万人に限定された陸軍に選び残されたロンメルは、[[ドレスデン]]歩兵学校(1929([[1929]] - [[1933年]])、[[ポツダム]]歩兵学校(1935年 - 1938年)の教官を務めた。[[プール・ル・メリット勲章1935年]]を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'')- 』は[[1937年]]出版され、50万部を売り切った。[[アドルフ・ヒトラー]]も読者であった。[[1938年]]には大佐に昇進し、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する[[陸軍士官学校]]([[:de:Theresianische Militärakademie|de]])の校長に任命された。[[1939年]]には総統大本営警護大隊(F&uuml;hrer-Begleitbataillon FHQ)の指揮に任命されて、[[ポーランド侵攻]]では前線近くに停を務られた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。彼は[[ポーランド侵攻]]前の8月1日に遡及して[[少将]]に昇進した。<br>
[[プール・ル・メリット勲章]]を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'') 』は[[1937年]]出版され、50万部を売り切った。[[アドルフ・ヒトラー]]も読者であった。<br>
[[1938年]]には大佐に昇進し、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する[[陸軍士官学校]]([[:de:Theresianische Militärakademie|de]])の校長に任命された。[[1939年]]には総統大本営警護大隊(F&uuml;hrer-Begleitbataillon FHQ)の指揮官に任命されて、[[ポーランド侵攻]]では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。彼は[[ポーランド侵攻]]前の[[8月1日]]に遡及して[[少将]]に昇進した。
 
==第二次世界大戦==
 
==ヒトラー暗殺計画==
[[1944年]][[7月17日]]、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の602航空中隊(602 Squadron)の[[スピットファイア (航空機)|スピットファイア]]によって機銃掃射され、彼は頭部に重傷を負い入院した。<br>
1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の602航空中隊(602 Squadron)の[[スピットファイア (航空機)|スピットファイア]]によって機銃掃射され、彼は頭部に重傷を負い入院した。一方、7月20日の[[ヒトラー暗殺計画]]の失敗後、ロンメルのB軍集団の参謀長の[[ハンス・シュパイデル]]([[:de:Hans Speidel|Hans Speidel]])中将が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。[[マルティン・ボルマン]]はロンメルの関与を確信し、ヨーゼフ・ゲッベルスはその関与を疑った。1944年10月14日、療養先の自宅を訪れたヒトラーの使者の二人の将軍にロンメルは反逆罪で裁判を受けるか自殺するかの選択を迫られ、裁判を受けても死刑は免れず、粛清による家族への波及を恐れた彼は「私は軍人であり、最高司令官の指揮に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して何一つ弁明もせず服毒自殺を遂げた。ドイツの英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬しなかった。ロンメルの計画への関与の真偽は不明である。戦後彼の妻はロンメルがヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。
一方、[[7月20日]]の[[ヒトラー暗殺計画]]の失敗後、ロンメルのB軍集団の参謀長の[[ハンス・シュパイデル]]([[:de:Hans Speidel|Hans Speidel]])中将が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。[[マルティン・ボルマン]]はロンメルの関与を確信し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]はその関与を疑った。<br>
[[1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の602航空中隊(602 Squadron)の[[スピットファイア (航空機)|スピットファイア]]によって機銃掃射され、彼は頭部に重傷を負い入院した。一方、7月20日の[[ヒトラー暗殺計画]]の失敗後、ロンメルのB軍集団の参謀長の[[ハンス・シュパイデル]]([[:de:Hans Speidel|Hans Speidel]])中将が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。[[マルティン・ボルマン]]はロンメルの関与を確信し、ヨーゼフ・ゲッベルスはその関与を疑った。1944年10月14日]]、療養先の自宅を訪れたヒトラーの使者の二人の将軍にロンメルは反逆罪で裁判を受けるか自殺するかの選択を迫られ、裁判を受けても死刑は免れず、粛清による家族への波及を恐れた彼は「私は軍人であり、最高司令官の指揮に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して何一つ弁明もせず服毒自殺を遂げた。ドイツの英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬しなかった。ロンメルの計画への関与の真偽は不明である。戦後彼の妻はロンメルがヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。<br>
ロンメルの計画への関与の真偽は不明である。戦後、彼の妻ルーシー・モリンはロンメルがヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。
 
戦後、残した軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル・ハートが編集して『The Rommel Papers』として出版された。
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