「マリー・アントワネット」の版間の差分
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*[[1785年]]次男[[ルイ17世 (フランス王)|ルイ・シャルル]]誕生。
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*:また、アントワネットと[[スウェーデン]]貴族[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]][[伯爵]]との[[恋]]は、フランス宮廷では専らの噂となるほどであり、一方彼女は大貴族達を無視し[[ポリニャック伯夫人]]などの、自分のお気に入りの少数の貴族達のみを極端に偏愛した。
*1785年アントワネットの名を騙った、ブルボン王朝末期を象徴する[[スキャンダル]]である[[首飾り事件]]が発生、1786年3月に判決など、彼女に関する騒動は絶えなかった
*地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。
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*[[1789年]]、新たな徴税を試みるが、民衆の負担は既に限界に達しており、[[貴族]]からも強い反発を受けた。
**1789年7月14日民衆の不満は爆発し、バスチーユ牢獄を襲撃[[フランス革命]]が引き起こされた。そんななか[[ポリニャック伯夫人]]は、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたにも関わらず、彼女を真っ先に見捨てオーストリアに[[亡命]]した。
*:マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは、義妹のエリザベート内親王と[[ランバル公妃]]だけであった。[[ヴェルサイユ宮殿]]から[[テュイルリー宮殿]]に国王夫妻は身柄を移されたが、そこでアントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走し兄に助けを求めようと計画。
*1791年6月20日[[ヴァレンヌ事件]]により逃亡を図るも失敗、6月25日に連れ戻される。
*:この事件により、親国王派の国民からも見離される。
*:結局同年[[10月15日]]革命裁判所で死刑の判決を受け、翌[[10月16日]]夫の後を追ってギロチンで斬首刑にされた。
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