「ガッリエヌス」の版間の差分

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'''ガリエヌス'''([[218年]] - [[268年]])は、[[ローマ帝国]]の[[皇帝]]。
父親のウァレリアヌスと共に、[[エトルリア]]の血を引いていたという。<br>
父親のウァレリアヌスと共に、[[エトルリア]]の血を引いていたという。[[デキウス]]・[[トレボニアヌス]]・ウァレリアヌス・ガリエヌスは、みなエトルリアの血を引いており、その事による結び付きがあったという説がある。218年に父のウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガリエヌスは帝国西部の戦線を担当する事になった
256年、ペルシア皇帝[[シャープール1世]]が、ローマ帝国領[[カッパドキア]]に進攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、[[259]]年に[[シリア]]の[[アンティオキア]]に到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝[[ウァレリアヌス]]が[[260]]年に[[ペルシア]]に捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、[[ガリア帝国]]が出現してしまう。しかし、当時砂漠都市の一つであったパルミラの統治者オデナトゥスが、軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけ、ペルシア軍を敗走させた。これを機会にガリエヌスは、オデナトゥスと同盟を結び、彼をパルミラの共同統治者とし、パルミラは王国に、オデナトゥスと[[ゼノビア]]は王と王妃になった。しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オデナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニスとの諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。ただちにゼノビアがマエオニスを処刑し、女王として即位すると、彼女は今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラによる帝国三分割を許してしまう。この事態に、皇帝ガリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。彼はいくつかの詩も残しており、また哲学にも関心を抱き、哲学者[[プロティノス]]とも交流があった。
 
[[218年]]に父のウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガリエヌスは帝国西部の戦線を担当する事になった。<br>
[[256年]]、ペルシア皇帝[[シャープール1世]]が、ローマ帝国領[[カッパドキア]]に進攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、[[259]]年に[[シリア]]の[[アンティオキア]]に到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝[[ウァレリアヌス]]が[[260]]年に[[ペルシア]]に捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、[[ガリア帝国]]が出現してしまう。しかし、当時砂漠都市の一つであった[[パルミラ]]の統治者オデナトゥスが、軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけ、ペルシア軍を敗走させた。これを機会にガリエヌスは、オデナトゥスと同盟を結び、彼をパルミラの共同統治者とし、パルミラは王国に、オデナトゥスと[[ゼノビア]]は王と王妃になった。しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オデナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニスとの諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。ただちにゼノビアがマエオニスを処刑し、女王として即位すると、彼女は今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラによる帝国三分割を許してしまう。この事態に、皇帝ガリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。彼はいくつかの詩も残しており、また哲学にも関心を抱き、哲学者[[プロティノス]]とも交流があった。<br>
しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オデナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニスとの諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。ただちにゼノビアがマエオニスを処刑し、女王として即位すると、彼女は今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラによる帝国三分割を許してしまう。<br>
この事態に、皇帝ガリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。
 
彼はいくつかの詩も残しており、また哲学にも関心を抱き、哲学者[[プロティノス]]とも交流があった。
 
== 参考文献 ==
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