「西ドイツ」の版間の差分

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1950年に勃発した[[朝鮮戦争]]は世界的に物資の需要を高めたが、西ドイツの復興にも追い風となった。これによる物資不足で、ドイツ製品を忌避していた国々も西ドイツ製品を買うようになった。当時、西ドイツには[[オーデル・ナイセ線]]以東の[[旧ドイツ東部領土]]や東ドイツからの避難民が溢れていたため、他国と比較して賃金の安い熟練労働者を多く抱えており諸外国の輸入需要にこたえることができ、結果ドイツの[[輸出]]は急激に伸びた。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。1951年に回復した主権によって開かれた第1回連邦議会は、[[カルテル]]を容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業については'''[[:de:Montan-Mitbestimmungsgesetz|モンタン共同決定法]]'''が成立した。これは、11人の[[監査役]]に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。
 
[[1950年代]]末から[[1960年代]]にかけてはガストアルバイター(Gastarbeiter)として、[[トルコ]]や[[大韓民国|韓国]]など諸外国から[[移民]]が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。1961年に[[ベルリンの壁]]ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、[[自然独占]]の観点から[[シーメンス]]をふくむエネルギー企業に認められた<ref>清水忠之 [http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/2512/1/annual_legal_31_39-45.pdf 複数議決権等と株主平等の原則] 2015年 明治学院大学法律科学研究所年報31 pp.39-45.</ref>
 
1970年代は波乱であった。1973年1月末に[[ドイツ連邦銀行]]にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。[[オイルショック]]により1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に[[欧州諸共同体]]以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は[[労働組合]]代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、[[連邦憲法裁判所]]は合憲判決を下した。
 
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済は[[スタグフレーション]]に陥っていた。そこで[[ヘルムート・コール]]首相は[[新自由主義]]路線を打ち出した。他方、原子力企業{{仮リンク|ヌーケム|en|Nukem Energy|de|Nukem}}がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた<ref>[[:de:Stern (Zeitschrift)|シュテルン]] 1988年1月21日号</ref>。1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、[[ベルリンの壁崩壊]]直前の1989年末に200万の大台を割った。1991年前半には160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した
 
1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有するデグサ<ref>2006年[[:en:RAG AG|ルール石炭]]に買収される</ref>と22.5%の[[リオ・ティント]]であった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、[[RWE]]が25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で<ref>出資割合シーメンス6に対しヌーケム4</ref>原燃会社を設立。2006年、''[[:en:Advent International|Advent International]]'' に、2013年、[[カメコ]]に買収された。<ref>ヌーケム [http://www.nukem.de/fileadmin/nukem/mediapool/PDFs/NUKEM_History.pdf NUKEM History or the Roots of NUKEM] Alzenau, August 2013</ref>
 
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、[[ベルリンの壁崩壊]]直前の1989年末に200万の大台を割った。1991年前半には160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
 
== 政治 ==