「ヴァイキング」の版間の差分

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840年代には[[ロワール川]]河口や[[ナント]]、[[ブルターニュ]]を襲い、850年代には[[ジブラルタル海峡]]を回って[[地中海]]にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。[[863年]]にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。
 
[[セーヌ川]] (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北[[フランス]]各地へと出撃した。[[851年]]にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、[[865年]]にはふたたびイングランドに来襲して[[ノーサンブリア]]から[[イースト・アングリア]]一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、[[ウェセックス王国]]王国の[[アルフレッド大王]]は[[877年]]にデーン人を撃退し、翌[[878年]]の[[ウェドモーアの和議]]によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域([[デーンロウ]])とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史は[[アングロサクソン]]諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。[[911年]]にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長[[ロロ]]の下に恒久的に定住し、[[ノルマンディー公国]]を形成することになる。
 
ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた<ref name="hokuoushi26" />。{{要出典範囲|後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる<ref group="注釈">例えば11世紀におけるノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランドの征服は、[[ノルマン・コンクエスト]]、つまり「ノルマン人による征服」と呼ばれる。だが9世紀においての、デーン人によるイングランド侵略、デーンロウの成立は、ノルマン・コンクエストとは呼ばない。</ref>。|date=2015年3月}}