「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の版間の差分

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[[1938年]][[11月10日]]、イスタンブール滞在中、執務室のあった[[ドルマバフチェ宮殿]]で死亡した。死因は[[肝硬変]]と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「肝硬変は「[[ラク]](トルコの蒸留酒)」のためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。
 
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにムスタファ・ケマル・アタテュルクの神格化が進むが、生前の彼は[[個人崇拝]]を嫌っていたという。ムスタファ・ケマル・アタテュルク、大統領に就任した[[イスメト・イノニュ]]が継ぎは強引さとカリスマ性こそアタテュルクに劣るものの、第二次世界大戦を終戦直前まで中立を保つことでトルコを戦火に巻き込まずに乗り切ったり、その手腕と功績こそ大きいが、強引は高く評価とカリスマ性で劣ったイノニュの時代にれている。しかし国内の改革は先送りせざる並行して推し進めることは叶わず、内政面の改革と再発展は第二次世界大戦後まで持ち越される。
 
== ケマル主義 ==