「長享・延徳の乱」の版間の差分

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== 概要 ==
文明9年([[1477年]])に[[応仁の乱]]が収束したのち、各地では守護や国人らが寺社領や公家の[[荘園]]などを押領して勢力を拡大していた。[[山名宗全]]率いる西軍に属していた近江守護・[[六角高頼]]も[[荘園]]や将軍・義尚近臣[[奉公衆]]の所領を押領するなど反抗的態度を表していた。しかし、[[長享]]元年(1487年)7月、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角高頼に対し訴訟を起こし<ref>渡邉大門 『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第六章</ref>。さらに寺社本所領押領も発覚、幕府はその威信回復を企図して[[六角氏]]を討伐の兵を挙げ近江に遠征した。
 
== 第一次六角征伐(鈎の陣)==
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| combatant2 = [[六角氏]]
| commander1 = [[足利義尚]](第9代将軍)<br>[[細川政元]][[ファイル:松笠菱(細川向かい松).jpg|20px]]、[[細川政之]]、<br>[[武田国信]]、[[富樫政親]]
| commander2 = [[六角高頼|六角行高]]
| strength1 = 20,000
| strength2 = 不明
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| casualties2 = 不明
}}
長享元年(1487年)9月12日9代将軍・[[足利義尚]]は六角行高の征伐を決し、[[奉公衆]]を中心とした軍、守護、公家衆を率いて近江坂本へ出陣するした。9月には[[管領]]・[[細川政元]]をはじめ、[[若狭国|若狭]][[守護]]・[[武田国信]]や[[加賀国|加賀]]守護・[[富樫政親]]を近江に召集して行高を攻撃する。行高は[[観音寺城]]を放棄して撤退するが、やがて[[甲賀郡]]山間部での[[ゲリラ戦]]を展開したため、戦闘は膠着状態に陥った。
 
翌年には、幕府が頼みとする富樫政親が[[加賀一向一揆]]の激化によって加賀へ帰還するが、帰還した政親は一揆勢に敗れて討たれる。さらに義尚は、[[本願寺]]や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐を理由とする政元から反対されて断念する。同年、義尚は側近の[[結城尚豊]]を近江守護に任命する。
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| combatant2 = 六角氏
| commander1 = [[足利義材]](第10代将軍)<br>[[安富元家]]、[[細川義春]]、<br>[[斯波義寛]]、[[赤松政則]]
| commander2 = [[六角高頼|六角行高]]
| strength1 = 不明
| strength2 = 不明
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| casualties2 = 不明
}}
延徳2年([[1490年]])、[[足利義政]]、[[日野富子]]の推挙により、西軍の名目上の大将であった[[足利義視]]の子・[[足利義材]]が10代将軍に就任した。足利義材は日野富子や奉公衆の意を受けて、足利義尚の遺志を継ぎ、延徳3年([[1491年]])、再び近江遠征を行った。
義尚の従弟で後を継いだ10代将軍・足利義材も、延徳3年([[1491年]])に再び行高討伐を行った。行高に替えて細川政元を近江守護に任じたが、[[斯波義寛]]・[[赤松政則]]の両軍が六角一族の[[山内政綱]]を討ち取った他は戦果を挙げられず、行高が[[甲賀郡]]から[[伊勢国]]へ逃れたため、幕府軍は討伐を断念。政元に替えて[[六角虎千代]]([[六角政堯]]の養子)を守護に任命して近江から撤退した。この時、土岐成頼、斎藤妙純は幕府軍に合流し、関係が変化している。
 
義尚の従弟で後を継いだ10代将軍・足利義材も、延徳3年(は奉公衆や大軍を率いて参陣した[[1491年斯波義寛]])に再び行高討伐などの守護行った。行高率いて近江替えて入国、細川政元を近江守護に任じたが[[斯波義寛]]・[[赤松政則]]の両軍六角一族の[[山内政綱]]を討ち取った他は戦果を挙げられず。しかし六角行高が[[甲賀郡]]から[[伊賀国]]へ逃れ、さらに[[伊勢国]]へ逃れたためると、幕府軍は討伐を断念。細川政元に替えて[[六角虎千代]]([[六角政堯]]の養子)を守護に任命し近江から撤退遠征を終了した。この時、土岐成頼、斎藤妙純は幕府軍に合流し、関係が変化している
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== 結果 ==
2度の討伐失敗後近江遠征により、足利義材は[[畠山氏#畠山尾州家|畠山尾州家]]の畠山政長や斯波義寛を重用するようになり、細川政元、日野富子とは疎遠となっていった。そして、翌[[明応]]2年([[1493年]])に足利義材は畠山政長の訴えを聞き入れ、[[畠山氏#畠山総州家|畠山総州家]]の[[畠山義豊]]を討つため、河内遠征を行なった。しかし、畠山義豊は細川政元が将軍・、日野富子と通じており、遠征中の足利義材を廃し、第11代将軍[[足利義澄|足利義高]](のち義澄)を擁立した([[明応の政変]])。これにより畠山政長は戦死、足利義材は幽閉、奉公衆は解体され、幕府の権威は大きく失墜、また、首を挿げ替えられた前将軍義材は京を脱出し復権活動を開始した。
 
討伐対象だった行高はこの混乱に乗じて六角虎千代を追放、次いで守護に任命された[[山内就綱]](政綱の子)との戦いも制し、明応4年([[1495年]])、足利義高より赦免を勝ち取り、更に義高の偏諱を賜り「'''高頼'''」と改名した。この直後に美濃国で起きた内乱にも高頼は介入し、翌明応5年(1496年)に美濃守護代となった[[斎藤妙純]]の侵攻を招いたがこれを退け、妙純は撤退中に土一揆により戦死した([[船田合戦]])。
 
その後、高頼は永正4年(1507([[1507]])の[[永正の錯乱]]、永正8年(1511([[1511]])の[[船岡山合戦]]による足利義材の復権などの余波を受け、第11代・第12代将軍足利義澄・[[足利義晴|義晴]]父子を庇護するなど、[[細川京兆家]]の内訌および幕府の将軍職争いに巻き込まれた。
 
== 参加した大名 ==
*[[細川政元]] - 旧東軍。第一次征討では義尚は政元とだけ相談して征討を決断したとされる(『大乗院寺社雑事記』)。第二次征討では出陣に消極的で、代わりに家臣の[[安富元家]]を派遣した。元家は近江[[守護代]]に任命されるが、ゲリラに苦しめられ辞任した。
*[[細川政之]] - 旧東軍。[[阿波国|阿波]]守護。第一次征討出陣中に病に倒れて京都に帰還、長享2年7月に34歳で急死。第二次征討では後を継いだ弟の[[細川義春|義春]]が参陣した。
*[[畠山政長]] - 旧東軍(畠山尾州家)。管領であり、第一次征討に出陣した。
*[[畠山尚順]] - 旧東軍の管領[[畠山政長]]の子。第二次征討に出陣した
*[[斯波義寛]] - 旧東軍。[[守護代]]の[[織田敏定]]・[[織田寛広]]を引き連れて上洛。[[朝倉氏]]から奪われていた[[越前国|越前]]回復を訴えるが徒労に終わった。
*[[畠山尚順]] - 旧東軍の管領[[畠山政長]]の子。
*[[武田国信]] - 旧東軍。[[若狭国|若狭]]守護。
*[[山名俊豊]] - 旧西軍。[[備後国|備後]]守護。父・[[山名政豊|政豊]]が[[赤松氏]]との戦争の最中に出陣した。
*[[一色義秀]] - 旧西軍。父・[[一色義直|義直]]は知行地である若狭小浜が武田国信に与えられた事に抗議して丹後に下向したため、義秀が代理として参戦した。
*[[大内政弘]] - 旧西軍。自身は上洛せず、代わりに家臣の[[間田弘胤]]を派遣した。
*[[赤松政則]] - 旧東軍。重臣の[[浦上則宗]]とともに出陣した。
*[[京極政経]] - 旧東軍。配下の国人衆が寺社領を横領したため、家督を甥・[[京極高清|高清]]に変えられた。
*[[細川政元]] - 旧東軍。第一次征討では義尚は政元とだけ相談して征討を決断したとされる(『大乗院寺社雑事記』)。第二次征討では出陣に消極的で、代わりに家臣の[[安富元家]]を派遣した。元家は近江[[守護代]]に任命されるが、ゲリラに苦しめられ辞任した。
*[[細川政之]] - 旧東軍。[[阿波国|阿波]]守護。出陣中に病に倒れて京都に帰還、長享2年7月に34歳で急死。第二次征討では後を継いだ弟の[[細川義春|義春]]が参陣した。
*[[富樫政親]] - 旧東軍。出陣中に加賀に騒乱が起こり戻るが、[[加賀一向一揆]]に攻め込まれて自殺した。
*[[山名俊豊]] - 旧西軍。[[備後国|備後]]守護。父・[[山名政豊|政豊]]が[[赤松氏]]との戦争の最中に出陣した。
*[[大内政弘]] - 旧西軍。自身は上洛せず、代わりに家臣の[[間田弘胤]]を派遣した。
*[[土岐成頼]] - 旧西軍。第二次征討のみ出陣した。
*[[土岐政房]] - 土岐成頼の子。第一次征討のみ出陣した。
*[[一色義秀]] - 旧西軍。父・[[一色義直|義直]]は知行地である若狭小浜が武田国信に与えられた事に抗議して丹後に下向したため、義秀が代理として参戦した。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
{{Japanese-history-stub}}
* {{Citation |和書| last=| first=|editor=橋本博|year =1935| title =大武鑑. 巻之1|publisher =大洽社|url={{NDLDC|1015270/42}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=長享元年 九月十二日常徳院殿樣江州御動座當時左陣衆着到|}}
 
==関連事項==
*[[甲賀二十一家]]
*[[甲賀五十三家]]
 
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[[Category:室町時代の戦い]]