「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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1281年にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命するが、オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの政策に恐怖を抱いたため、上級領邦貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた<ref name="tue155">ツェルナー『オーストリア史』、155頁</ref>。1282年12月にルドルフは諸侯と交渉し、プシェミスル家からオーストリア、[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]、[[ケルンテン州|ケルンテン]]を没収した。ケルンテンはチロル伯[[マインハルト (ケルンテン公)|マインハルト]]に与え、入念な手続きを経てオーストリアとシュタイアーマルクを長子[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト]]と次子ルドルフに封土(レーン)として与えた。また、[[ヘプ|エーガー]]と[[エーガー川|エーガーラント]]は帝国の直属領に編入される。
 
最初アルブレヒトとルドルフがオーストリアの共同統治を行っていたが、[[1283年]]6月1日のラインフェルデンの契約によってアルブレヒトが単独のオーストリア領邦君主となった<ref name="tue155"/><ref name="kikuchi141"/>。ルドルフのドイツ王の権限を利用して一門の利益を増やす家領政策によってハプスブルク家はスイスからオーストリアに支配地を広げた<ref name="yamauchi"/>。一族が本拠としていた[[アールガウ州|アールガウ]]の{{仮リンク|ハビヒツブルク (城)|de|Habsburg (Burg)|label=ハビヒツブルク城}}から、{{仮リンク|ブルック (スイス)|de|Brugg|label=ブルック}}を経てウィーンに本拠地を移した<ref name="odori23">踊『図説 スイスの歴史』、23頁</ref>。
 
=== 晩年 ===
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{{Commons|Rudolf I. von Habsburg}}
 
{{先代次代|[[神聖ローマ皇帝一覧|ドイツ王(ローマ王)]]|1273年 - 1291年|[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]<br />[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]<br />([[大空位時代]])|[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]}}
{{先代次代|[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]]<br />シュタイアーマルク公|1278年 - 1282年|[[オタカル2世]]|[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]<br />[[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ2世]]}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:るとるふ1}}
[[Category:神聖ローマ皇帝]]