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'''セルゲイ・セミョーノヴィチ・ウヴァーロフ'''(Sergey Semionovich Uvarov、ロシア語表記:{{lang|ru|Серге́й Семёнович Ува́ров}}、[[1786年]][[9月5日]]、[[モスクワ]] – [[1855年]][[9月4日]]、同地)はロシアの古典学者、政治家である。
 
モスクワに生まれた。当時、権力を持っていた[[ラズモフスキー家]]の娘と結婚することにより、ロシアの[[エカチェリーナ2世]]の寵臣となった。古代ギリシャ文学や考古学に関する多くの著作を行い、ヨーロッパで高い評価を得た。保守的な思想の持ち主であったが、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]、[[アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、Prince de Ligne、Nikolay Karamzin、Vasily Zhukovskyらと交際した。[[1811年]]から[[1822年]]の間、[[サンクトペテルブルク]]で研究を行った。[[1832年]]に教育副大臣に任命され、[[1833年]]に義理の父親の後を継いで教育大臣に任命され、[[1849年]]まで務めた。上流階級出身でない人々の教育の機会を制限し、大学や高校に対する政府のコントロールを強めるなどの施策を行ったが、ロシアの科学者海外派遣を再開するなど、教育の質を高めるのに功績があった。
 
[[1811年]]に[[ロシア科学アカデミー]]の会員に選ばれ、[[1818年]]から死ぬまでアカデミーの会長を務めた。[[鉱物]]コレクターだった事が縁となり、鉱物・[[灰クロム柘榴石]](ウヴァロヴァイト、Uvarovite)に命名された。