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日本の氏族
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2016年11月27日 (日) 04:06時点における版
遊佐氏(ゆさし)は、日本の氏族。南北朝時代に三管領と呼ばれた畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護代を務めた。
概要
遊佐氏は摂関家荘園である出羽国飽海郡遊佐郷を本拠とし、荘官の奥州藤原氏の下で在地領主となった。その後、南北朝時代に畠山氏が奥州探題となって赴任すると、その傘下に入って重臣となり、一族はそれぞれ出羽国、河内国、能登国、越中国に分かれた。
河内国では、永徳2年(1382年)に畠山金吾家の畠山基国が南朝の楠木正儀追討を命じられ、河内国に入国すると遊佐長護が守護代に任じられた。その後、畠山金吾家が畠山政長(畠山尾州家)と畠山義就(畠山総州家)に別れて争うと、遊佐氏も遊佐長直と遊佐就家に別れて争った。
明応2年(1493年)、畠山政長と遊佐長直が明応の政変により自害する。跡を継いだ遊佐順盛は畠山尚順に仕えたが、遊佐長教の代に畠山稙長に対して下克上を起こし、三好長慶と結んで畠山長経、畠山政国と当主を挿げ替え権勢を誇った。しかし、天文20年(1551年)、長教は刺客に暗殺された。長教の子・遊佐信教も畠山高政・畠山昭高兄弟に仕えたが、三好氏に通じて畠山昭高を暗殺し、結局、織田信長により天正2年(1574年)河内遊佐氏は滅亡した[1]。