「御用金」の版間の差分

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江戸幕府では主に天領となっていた都市や農村に住む町人や農民から徴収した。特に後に「[[天下の台所]]」と称された大坂の町人はもっとも多く対象とされ、前述の宝暦の時には鴻池善右衛門家から5万両をはじめ、205名の大坂の有力町人から170.3万両を集めた。続いて江戸や堺、西宮、兵庫がこれに続いた。時代が下るにつれて江戸や大坂の一般の庶民や天領農村の有力者にも対象が広げられ、[[天明]]6年([[1786年]])のように全国規模で発令され、対象も寺社や山伏など武士以外のほぼ全階層に及んだ事例もある。もっとも、大名や旗本にはそれぞれ知行権が存在しており、これを冒すことは幕府としても不可能であったため、そこの住人に対する御用金は不可能であった(当然、これらの所領ではその領主が御用金を自己の領民から徴収していた。なお、江戸幕府の御用金は調達した地域が大名・旗本の所領となった場合には、新領主の支配の妨げにならないように御用金の清算を行っている)。また、領主の要求する御用金の指定高の全額を領民が負担するのは困難であり、実際には領民代表と奉行・代官などが協議をして実際の徴収額である出金請高を減額するのが普通であった。
 
[[明治政府]]も発足時に財政基盤がなかったために御用金で財源を賄っていたことが知られている。[[明治慶応]]4年([[1868年]])[[1月 (旧暦)|1月]]に[[会計基立金]]300万両を京都・大坂及びその周辺の町人・農民から集め、続いて明治天皇の大坂行幸等を理由に数回徴収された。続いて政府発行の[[太政官札]]の引き受けも[[不換紙幣]]であるにも関わらず、町人手持ちの正金との引換が強制されたために実質御用金と同様であった。その後、欧米の事例を参考にして[[公債]]([[国債]])を発行する方針に変更されたことにより、明治2年([[1869年]])[[4月 (旧暦)|4月]]に廃止された。
 
==主な御用金==