「神仏習合」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m typo
18行目:
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている<ref name=yoshie/>。[[律令制]]の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた<ref name=yoshie/>。[[大乗仏教]]は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる<ref name=yoshie/>。それに応えるように[[雑密]]を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ[[密教]]は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている<ref name=yoshie/>。
 
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。[[710年]](和銅3年)の[[興福寺]]における[[春日大社]]は最も早い例である。また、[[東大寺]]は大仏建立に協力した[[宇佐八幡神]]を勧請して鎮守とした。これ現在の[[手向山八幡宮]]である。他の古代の有力寺院を見ても、[[延暦寺]]は[[日吉大社]]、[[金剛峯寺]]は[[丹生都比売神社|丹生神社]]、[[東寺]]は[[伏見稲荷大社]]などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は'''[[護法善神]]'''といわれる。
 
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して'''神仏混淆'''ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫するものではなく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となっている
 
=== 大乗密教による系列化 ===