「東京プロレス」の版間の差分

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日本プロレスは、東京プロレスに対する妨害工作を続け、1966年11月27日にフリッツ・フォン・エリックが来日し、当日[[東京国際空港]]で行われた記者会見で、当時[[週刊プロレス|プロレス&ボクシング]]の編集長だった[[竹内宏介]]の質問に対し、フリッツは「ジョニー・バレンタインのUSヘビー級王座は偽物だ」と回答して東京プロレスを牽制した(実際、フリッツはUSヘビー級王座は戴冠していなかった)。12月3日に日本武道館大会を開催し(馬場VSフリッツの[[インターナショナル・ヘビー級王座]]戦と[[アジアタッグ王座]]決定戦)、当日券は完売し14500人の観客動員を記録するなどして興行自体は成功に終わった<ref name="jiken18" />。
 
一方の東京プロレスは、12月14日から再び地方シリーズを強行しながらも興行的に惨敗し、年内最終戦となった12月19日の[[東京体育館]]大会(メインは猪木VS[[スタン・スタージャック]]のUSヘビー級王座戦)も主催者発表で2500人(実数は1000人以下)の惨敗に終わり、東京体育館大会が東京プロレスとして最後の興行となった。日本プロレスは、東京プロレスに対する妨害工作が成功したとして、馬場VSフリッツ戦以降、崩壊まで日本武道館を使用しなかった<ref name="jiken18" />
 
シリーズ終了後に猪木は豊登との決別を選択。資金難の中でも依然として公金横領、ギャンブルへの流用を止めない豊登の無責任極まりない行動に対しての決断であった。猪木らは極秘裏に当時新宿にあったオフィスから必要な荷物を新たに用意した北青山の事務所へ移して豊登派とは別に新会社「東京プロレス株式会社」を設立した。猪木はほぼ同時期に日本プロレスを飛び出して設立された[[国際プロレス]]との業務提携に向けて社長の[[吉原功]]、ヒロ・マツダ(マツダと猪木はアメリカで面識があった)とも参加に向けて連絡を取り合っていた。