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== 概要 ==
現在では、[[集団]]や個々人の[[心情]]・[[気分]]、あるいは集団の置かれている状況を指すことが多いが<ref>福田健『「場の空気」が読める人、読めない人―「気まずさ解消」のコミュニケーション術』2006年 PHP研究所, ISBN 4569654657 での「場の空気」の定義におおむね沿ったもの</ref>、人によって指し示す範囲は若干異なる。社会心理学では「場の空気」が起こす[[集団思考|集団心理]]の危険性に着目することが多く、ビジネス等ではむしろ逆にコミュニケーション能力として肯定的・積極的に解釈することが多い。
 
「空気」をある種の時代の気分や流行、文化や考え方の比喩として使用する例は古くからあり、[[夏目漱石]]は『三四郎』予告で「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる」と記している<ref>「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自ら波乱が出来るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此空気にかぶれて此等の人間を知る様になる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄のしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。」岩波版漱石全集1993.12</ref>。
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社会心理学の観点からとらえた書籍としての初出は[[山本七平]]の著『「空気」の研究』([[1977年]])と考えられている<ref>山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、1977年。</ref>。山本は教育行政や戦争指導などの事例を挙げ、空気を読むことが時に集団の意思決定をゆがめ誤らせることを指摘し「水を差す」ことの重要性を提示した。
 
あるハウツー本では'''場の空気を読む'''、すなわち場の空気を意識することは[[暗黙知]]であり、[[心理学]]ではこのような能力を「社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)」と呼んでいる<ref>内藤誼人『「場の空気」を読む技術』サンマーク出版, 2004年, ISBN 4763195948 p.36</ref>としている。そのような能力は「[[心の知能指数|EQ]]」(情動指数、心の知能指数)という呼び方でも知られている。特に対人心理学ではこのようなコミュニケーション上の機微を習得可能なもの(=技能)として捉え、[[社会技能]]と呼んでいる。つまり、対人心理学においては、対人関係の巧拙を生得的なもの(=性格)としては捉えない。
<!--古今東西を問わず場の空気を読むということはどのような人であれ人間関係を維持する上である程度は要求されることであり、一定のスキルを身につけることが望ましいとされる。ただし、後述のごとく批判的にとらえる人もいる。-->集団の空気を読まなければ協調はほぼ不可能であるため、社会生活においては重要な能力の一つである。
 
また場の空気を読むことがすなわち協調であると考える者も多く、ある側面において日本特有の事象あるとするる。[[場の空気#冷泉彰彦による空気の分類・分析と問題改善の提案|(下記参照)]]
 
[[2007年]]には、「空気を読めない」を略して'''[[KY語|KY]]'''という言葉が一部のマスメディアで取り上げられる様になり、同年の[[新語・流行語大賞]]候補にもなった<ref>[http://singo.jiyu.co.jp/ ユーキャン新語・流行語大賞公式サイト] 2007年度候補語解説</ref>。
 
== 相手表情から持ち読む ==
「場の空気を読む」ということは、「顔色を伺う」ことと同義といってもよい。集団や社会への親和性という面から見れば、周囲の人の反応を意識することと言える。であり、他人の表情や言動と言ったものの中から、自分が何がしかの行動を取ったことへの評価に相当する情報を見つけ出すことである。
大きく分類すれば次の4つの要素からなる、ともされる<ref>内藤誼人『「場の空気」を読む技術』p.36-38</ref>。
 
場の空気を読むことに長ける人は集団への親和性が高くなり、逆に場の空気を読めない人は集団内の人々からの評価が低くなる傾向が見られる。これは日本に限ったことではなく、他の国々でも同様の傾向があると思われる<ref>内藤誼人の前掲書(p.26-27, p.31-32)。同書によると、カナダでの調査およびアメリカでの調査でも「場の空気」を読めない人に対する、集団からの評価は次第に低くなる、との結果が出ている。 </ref>。
# まず状況を把握する
# 言うべき相手を確認する
# 適切な言葉を選ぶ
# 適切なタイミングを選ぶ。
 
内藤誼人は自著『「場の空気」を読む技術』において、'''顔の表情を読む'''こと、なかでも相手の'''眼を見る'''こと重要性を強調だとしている。相手の言っていることと相手の表情とが一致しなかったら、表情のほうが相手の真情なのだ気づくして優先させるということが大切である。例えば相手が「怒っていないよ」と言っている時に怒っている表情をしていたら、相手は怒っていると気づく捉えることである<ref>内藤誼人、前掲書 p.40</ref>。「場の空気」必要読めい人は、相手顔や眼元の表情を見ない、うつむきがちに話したり、顔ではないところや、手元の資料を見ながら話す傾向がる。それにより耳から入ってくる言葉にばかり注意が向き、相手の真意・心情を理解し損ねているとされる<ref>内藤誼人、前掲書 p.4041</ref>。
=== 相手の表情から気持ちを読むこと ===
「場の空気を読む」ということは、集団や社会への親和性という面から見れば、周囲の人の反応を意識することと言える。他人の表情や言動と言ったものの中から、自分が何がしかの行動を取ったことへの評価に相当する情報を見つけ出すことである。
 
しかしながら、「空気」を読んで理解したはずの相手の真意・心情は、本当にその相手の真情であるとは限らず、当人の勝手な先入観や思い込みであることも多い。
場の空気を読むことに長ける人は集団への親和性が高くなり、逆に場の空気を読めない人は集団内の人々からの評価が低くなる傾向が見られる。これは日本に限ったことではなく、他の国々でも同様の傾向があると思われる<ref>内藤誼人の前掲書(p.26-27, p.31-32)。同書によると、カナダでの調査およびアメリカでの調査でも「場の空気」を読めない人に対する評価は次第に低くなる、との結果が出ている。 </ref>。
 
内藤誼人は自著『「場の空気」を読む技術』において、'''顔の表情を読む'''こと、なかでも相手の'''眼を見る'''ことの重要性を強調している。相手の言っていることと相手の表情とが一致しなかったら、表情のほうが相手の真情なのだと気づくことが大切である。例えば相手が「怒っていないよ」と言っている時に怒っている表情をしていたら、相手は怒っていると気づくことが必要なのである<ref>内藤誼人、前掲書 p.40</ref>。
 
「場の空気」が読めない人は、相手の顔の表情や眼元の表情を見ないで話す傾向がある。うつむきがちに話したり、顔ではないところや、手元の資料を見ながら話す傾向がある。それにより耳から入ってくる言葉にばかり注意が向き、相手の真意・心情を理解し損ねるのである<ref>内藤誼人、前掲書 p.41</ref>、と内藤は述べている。
「場の空気を読めない人」というのは、年齢・性別にかかわらず存在しているとされる。
 
場の空気を読むには人の心理を読む必要があるが、その人の基本的なものの見方、考え方、信条などを知るようにし、たとえそれが自分の考え・信条と相容れないものでも理解しようと努めれば、よりうまく読めるようになる<ref>内藤誼人 p.72</ref>。
 
== 「場の空気」を読んだうえでどのように振舞うか ==
{{観点|section=1|date=2011年1月}}
「場の空気を読む」ことと、それを踏まえて「どのように振舞うか」ということは、また別の要素である。無数の主体的な選択肢が、各人の技量・[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・生き様などと呼ばれるものに応じて、その瞬間瞬間に存在している。
 
「場の空気を読む」ことと、それを踏まえて「どのように振舞うか」ということは、また別の要素である。無数の主体的な選択肢が、各人の技量・[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・生き様などと呼ばれるものに応じて、その瞬間瞬間に存在している。
一般論として述べるならば、よほど切迫した事情が無い限り、好ましいと感じている反応が相手の表情に出たら行動を積極的に行い、否定的な反応が出た場合は、自分が直前に取ったような行動は抑制するというのが、おおむね賢い方法であることは多い。つまり「場の空気」を読んで発言や行動を控える、「場の空気」を読んで場に相応しい発言をする、といった振る舞いなどである。
 
一般的に「場の空気を読む」して述べるならばよほど切迫した事相手の表が無い限り、好ましいと感じている反応が相手の表情に出たら行動を積極的に行い、否定的な反応が出た場合は、自分が直前に取ったような行動は抑制するというのがおおむね賢い方法であることは多い。つまり「場の空気」を読んで発言や行動を控える、「場の空気」を読んで場に相応しい発言を左右するといった振る舞いなどうことである。
だがそのような振る舞いだけでなく、もっと主体的な振る舞いも存在する。例えば、「場の空気」が"陰鬱"と読んで自ら「場の空気」の主導権を握り明るいものにする、「場の空気」が"いじめ"あるいは"犯罪的"と読んで適切・適法な行動を取る、あるいは「場の空気」が"自分の身に危険"と読んで早めにその「場」そのものから離れる、等々の選択肢も存在している。
 
だがそのような振る舞いだけでなくまた逆にもっと主体的な振る舞いも存在する。例えば、「場の空気」が"陰鬱"と読んだら、自らそのの空気」の主導権握り明るいものにする、「場の空気」が"いじめ"あるいは"犯罪的"と読んで適切・適法な行動を取る、あるいは「場の空気」が"自分の身に危険"と読んで早めにその「場」そのものから離れる、等々などの選択肢も存在している。
振舞い方については、各人の技量・[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・生き様に関連することだけあって、唯一の正解があるというわけでもないので、議論が尽きない。
 
しかしながら、一般的にはこのような振舞いは、「場をしらけさせる」「空気を読んでいない」とされることが非常に多い。
=== 「場の空気」を読む能力の習得 ===
一般的には、相手の表情を読んで自分の行為・発言に対する評価に相当する反応を見出す能力は、これに関する[[訓練]]や実地[[体験]]の積み重ねによって伸ばすことができる。通常、このような訓練は主に成長過程で、[[家庭教育]]において極めて自然な形式で行われているので、各家庭ごとの文化的基盤の差の影響を受けやすい。
また成人してから、[[形式知]]のような形で理知的にこれを理解しようという場合は、マナー教育などを通して、学習することも可能である。また、このためのマナー関連の[[ハウツー]]本(マニュアル本)なども多く出回っている。
 
=== 「場の空気を読めない人」にいかに接するかむ能力の習得 ===
一般的には、相手表情を読んで自分の行為・発言に対する評価に相当する反応を見出す能力は、これに関する[[訓練]]や実地[[体験]]の積み重ねによって伸ばすことができる。通常、このような訓練は主に成長過程で、[[家庭教育]]において極めて自然な形式で行われているので、各家庭ごとの文化的基盤の差社会環境の影響を受けやすい。
いわゆる「場の空気を読めない人」と呼ばれる人々の中にも数種類のタイプの人がいる。「場の空気」自体を読めない人と、「場の空気」はおおよそ読めているが適切な振る舞いを思いつかない人や、思いついてもあえて場の空気に即した振る舞いを行わない人がいる。
また成人してから、マナー教育などを通して[[形式知]]として理知的にこれを理解しようとする場合もある。
 
「場の空気を読めない人」に対して「場の空気を読め」とだけ叱って済ませてしまうことは、決して賢い方法ではない。内藤誼人によると、「場の空気」自体を読めない人は、場の空気に対する自覚が無いことが多いので、単に「場の空気を読め」と叱るよりも、むしろ「さっきはお客様の話に相槌を打つこともせず、書類ばかり見ていたね」といったように具体的なことを伝える方が状況改善、問題改善につながることが多い。指摘のタイミングについても、その場の状況を忘れてしまわないよう早い方が望ましいとしている<ref>内藤誼人、前掲書 p.183-184</ref>。
 
「場の空気」は読めているものの適切な振る舞いを思いつかない人に対しては、適切な振る舞いの例を言葉で語ったり、具体的に自分でおこなって見せるなどの方法もある。
また「場の空気」自体は読めて適切な振る舞いも知っているが、あえてそれを実行しない人については、何故そのような態度をとるようになったのか、まずはその人の事情・真情・考え方などを探った上で適切な対処をとるほうがいいこともある。あるいは、むしろ反対に、集団内に広まっている考え方や行為を反省、すなわち自己反省すべき場合もあろう。時には「場の空気」を醸し出している側が、適法・適切ではない考え方や行為等をしている場合もあるからである。
 
「場の空気を読めない人」への接し方も、振舞い方に関する判断と同様に、技量・[[価値観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・[[生き様]]などにかかわることなので、唯一の正解があるわけではなく、空気自体が誤りである可能性も含めて、議論が尽きない。
 
==「場の空気」を読む危険性==
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=== 発達障害と「場の空気」 ===
社会技能は訓練による習得を前提とした概念であるものの、[[広汎性発達障害]]を持つ人物の場合、社会技能の習得が生理的に不可能か、かなであった困難を伴うことがある。即ち、場の空気を読むことが出来ない。これは性格や家庭教育の問題ではなく、脳の先天的な機能([[心の理論]])の欠陥によるものである。これらの発達障害による問題行動は、成長に伴って減少する傾向があるが、定型発達者と全く同じ振る舞いが出来るほど改善するケースは、極めて稀である。原則として、本人が場の空気を読めないことを「自覚」して受け入れ、周囲に対して心を開くとともに、理解や支援を求め、周囲も可能な限りそれを受け入れることが、最も有効である。
 
=== パーソナリティ障害と「場の空気」 ===
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==インターネット上での「場の空気」==
 
日本のインターネット上で一部の(特に若年者の)コミュニケーションにおいては、発言内容をベースにやりとりするというよりも、むしろ適切に場の空気を読みながら互いに発言同士を連鎖させていくこと重視する形式主義的な作法が一般化しされており、これを[[社会学者]]の[[北田暁大]]は[[つながりの社会性]]と呼んでいる<ref>[[北田暁大]] 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 [[日本放送出版協会]]、2005年、203頁など。ISBN 978-4140910245。</ref>(ネガティヴに作用すると[[ブログ]]の[[炎上 (ネット用語)|炎上]]などを引き起こすことになる<ref>北田暁大「ディスクルス(倫理)の構造転換」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』 [[河出書房新社]]、2010年、159頁。ISBN 978-4309244426。</ref><ref name="ised">[[濱野智史]]「まえがき」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』4頁など。</ref><ref>[[荻上チキ]] 『ネットいじめ――ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』 [[PHP研究所]]、2008年、236頁。ISBN 978-4569701141。</ref>)。
 
[[批評家]]・社会学者の[[濱野智史]]は、日本における代表的なネットサービス([[2ちゃんねる]]・[[ニコニコ動画]]・[[mixi]]など)の多くはこのような場の空気を読む文化に基づいているとしており<ref>「ポストised、変化したことは何か1」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』461頁。</ref>、この傾向により、日本国外の先進国とは違って日本では内容ベースの熟議を行う電子公共圏の構築(討議プロセスを含む[[電子政府#電子民主主義|電子民主主義]]の実現)が困難になるなどの弊害が指摘されている<ref name="ised" /><ref>濱野智史 『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』 [[エヌ・ティ・ティ出版]]、2008年、135-136頁。ISBN 978-4757102453。</ref>。他方で、インターネット上でも場の空気を読むことが求められているのは日本の現実世界での暗黙のルールをオンライン上にも無意識に持ち込んでしまっているからに過ぎず、現代社会の「[[人間関係]]の流動化」が今後も加速していけば(すなわち空気が読めないほどに流動性が上昇すれば)、インターネット上での場の空気にひきずられた[[サイバーカスケード]]的な現象はおさまっていくのではないかという見方もある<ref>「流動化する社会の中で」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』447頁。</ref>。
 
[[批評家]]・社会学者の[[濱野智史]]は、日本における代表的ないて一部のネットサービス([[2ちゃんねる]]・[[ニコニコ動画]]・[[mixi]]など)の多くはこのような場の空気を読む文化に基づいているとしており<ref>「ポストised、変化したことは何か1」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』461頁。</ref>、この傾向により、日本国外の先進国とは違って日本では内容ベースの熟議を行う電子公共圏の構築(討議プロセスを含む[[電子政府#電子民主主義|電子民主主義]]の実現)が困難になるなどの弊害が指摘されている<ref name="ised" /><ref>濱野智史 『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』 [[エヌ・ティ・ティ出版]]、2008年、135-136頁。ISBN 978-4757102453。</ref>。他方で、インターネット上でも場の空気を読むことが求められているのは日本の現実世界での暗黙のルールをオンライン上にも無意識に持ち込んでしまっているからに過ぎず、現代社会の「[[人間関係]]の流動化」が今後も加速していけば(すなわち空気が読めないほどに流動性が上昇すれば)、インターネット上での場の空気にひきずられた[[サイバーカスケード]]的な現象はおさまっていくのではないかという見方もある<ref>「流動化する社会の中で」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』447頁。</ref>。
炎上やサイバーカスケードは、(大量の[[2ちゃんねらー]]が特定のブログに殺到するというように)ある「空気」が別の「空気」を覆い隠してしまう現象と捉えることができ、そういった異なる「空気」間での衝突・摩擦による混乱の対策として適度な「空気」の[[ゾーニング]](棲み分け・分断化)を促進すべきという発想もある([[コンテンツフィルタリング|フィルタリング]]は棲み分けのひとつと考えられる)<ref>『ネットいじめ――ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』 236-238頁。</ref>。
 
== 批 ==
物事の判断が場の空気に支配される事象は、古今東西を問わずしばしば見られる。これが行き過ぎた場合、先にも述べたようにさまざまな弊害を引き起こし得る。
 
[[山本七平]]は、例として[[太平洋戦争|旧日本軍の対米開戦]]、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の[[沖縄県|沖縄]]出撃、[[日中国交回復]]、[[イタイイタイ病]]事件、自動車[[公害]]に関する世論等を挙げ、細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、明確な根拠の全くない判断が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である」と述べた<ref>山本『「空気」の研究』(文庫版)、文藝春秋、1983年、ISBN 4167306034、p.16, 22。</ref>。
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[[色川大吉]]は、「ある昭和史―自分史の試み」で場の空気を「[[天皇]]を頂点に[[一君万民]]、自分達を超越する絶対者を常に求め、仲間内さえ良かれという社会体制に起因するものであり、日本特有のもの」とした。
 
[[集団思考]]の問題については欧米でも複数の報告や研究事例があるが日本[[個主義]]が未発達の日本文化おいてはある程度、有の徴的な社会心理現象ではない。山本七平以来「空気」という言葉がもっぱら日本人論や日本特殊論の文脈でのみ論じられてきたことは、世界中で行われている社会心理学上の成果を排除するといえよ負の作用をもたらしてきた
 
人間がその場にいる他人との相互作用の中で態度を決定することは、なにも「日本人」に独自のことではなくて、むしろ人類に共通の特性である。さらにいえば、動物の世界にも共通している。それをあたかも日本人だけが特殊であり、外国人(とりわけ西洋先進国)は独立した不変の人格をもつといった説明を行ったことは、今日から考えれば、太平洋戦争敗戦がもたらした自虐意識と外国の社会についての無知がもたらした特殊な自意識であったといえる。
 
== 関連文献 ==