「松田道之」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[鳥取藩]][[家老]]・[[鵜殿氏]]の家臣久保居明の次子として生まれる。はじめ藩医木下主計に養われ、のち松田市太夫の[[嗣子]]となる。藩校尚徳館と[[咸宜園]]に学び、幕末は[[尊皇攘夷]]運動に傾倒していた。[[明治維新]]後に内務官僚となり、明治2年(1869年)[[京都府]]大参事、明治4年(1871年)大津県令、翌年は滋賀県令に就任し、明治8年(1875年)には内務大丞に転任。同年、[[琉球処分官]]として沖縄を視察。以後、明治12年(1879年)まで琉球処分官として琉球・沖縄を三度訪問し、明治12年(1879年)の琉球処分断行に尽力した。同年、東京府知事に就任。遠い琉球と日本本土とを往復する処分官としての激務に心身の健康を害していたのか、明治15年(1882年)に満43歳の若さ世をた。
 
京都府大参事時代の教師として、京都府顧問[[山本覚馬]]の記載がある<ref>青山[2013:163]</ref>。山本は家では講座を開いて政治や経済に関する講義をされた。これに習った知名の士を挙げると、官員では、[[槙村正直]]・松田道之・[[藤村紫朗]]らである。松田も藤村も槇村の下の官員で、のち、松田は滋賀県知事・東京府知事、藤村も大阪府知事に栄転した。なかでも松田はもっとも山本と親交があった。