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IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー王座が創立され、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日、第5回「IWGPリーグ戦」を制したアントニオ猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降IWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。
 
== 開催までの経緯IWGP構想 ==
新日本プロレスの旗揚げ当時、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWAの世界王者も招聘することはできないし、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本プロレスにとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日本プロレスは崩壊するまで、NWAの加盟団体であった。NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、ビンス・マクマホンとマイク・ラベールであった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案した。こうした経緯もあって新日本は1980年にNWA加盟が認められた。しかしNWAでは実務的な話しかされず、さらにチャンピオンを招聘、タイトルマッチができるのは既存のプロモーターだけという条件も付けられていた。何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGPの構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た<ref> 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p80</ref>。