「シケリア戦争」の版間の差分

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70年にわたりシケリアのギリシア殖民都市が反目と繁栄を続ける一方、カルタゴは現在の[[チュニジア]]の北半分にあたる肥沃な土地を征服し、北アフリカに[[レプティス・マグナ|レプティス]]、オエア([[:en:Oea|en]]、現在の[[トリポリ]])と言った新しい植民地を建設していた。またマゴ・バルカはサハラ砂漠を横断して[[キレナイカ]]に到達し、[[航海者ハンノ]]はアフリカの西岸を探検した。しかし[[イベリア]]の植民都市は先住民と協力してカルタゴから離反し、イベリアからの銀と銅の供給が絶たれてしまった。
 
シケリアでは、ドーリア人都市のセリヌスとイオニアエリミ人都市の[[セジェスタ|セゲスタ]]が再び競合していた。セリヌスはセゲスタの土地に進入し、[[紀元前416年]]にセゲスタに勝利した。カルタゴは救援要請を拒絶したが、[[アテナイ]]はセゲスタ救援のため遠征軍を派遣した。しかし紀元前413年にシケリア・[[スパルタ]]連合軍に敗北する。セリヌスは紀元前411年に再びセゲスタに勝利する。このときにセゲスタはカルタゴに従属することになっを求めてきた。ここに至ってカルタゴはハンニバル・マゴが率いる救援軍を派遣し、紀元前410年にセリヌスに勝利した。カルタゴは、より大きな軍を編成する一方、外交的解決を求めた。
 
カルタゴ、セゲスタ、セリヌスおよびシュラクサイの間で何回かの交渉が行われたが、セゲスタとセリヌスの和解は失敗した。このため、ハンニバル・マゴは前回より大きな軍を率いてシケリアへ向かった。シュラクサイからの援軍があったにも関わらず、紀元前409年春にカルタゴはセリヌス包囲戦([[:en:Battle of Selinus|en]])に勝利しセリヌスを破壊し、続いて第二次ヒメラの戦い([[:en:Battle of Himera (409 BC)|en]])にも勝利してヒメラを破壊した。しかし、カルタゴ軍はアクラガスとシュラクサイは攻撃せず、戦利品とともにカルタゴに凱旋した。
 
他方、シケリアで最も強大な都市国家であるシュラクサイとアクラガスはカルタゴに対する策をとらなかった。しかしこの政策に反対したシュラクサイの将軍[[ヘルモクラテス]]は、私的に小さな軍を組織してセリヌスを再建し、そこを根拠地としてカルタゴ領に襲撃を行った。その後ヘルモクラテスはシュラクサイに戻ろうとして阻止され戦死したが、その前にモトーヤティアとパノルムスに勝利した。この活動の報復として、[[紀元前406年]]にハンニバル・マゴは三度目のシケリア遠征を実施した。
 
しかしながら、この遠征ではカルタゴ軍は激しい抵抗に会い、また不運も重なった。アクラガス包囲戦([[:en:Siege of Akragas (406 BC)|en]])において、カルタゴ軍には伝染病が蔓延し、ハンニバル・マゴ自身も病死してしまった。後任となったヒミルコはアクラガスを占領・破壊した。続いてゲラを占領、カマリナ([[:en:Kamarina, Sicily|en]])を破壊し、シュラクサイの新しい僭主である[[ディオニュシオス1世]]に何度も勝利した。しかし、伝染病が再びカルタゴ軍を襲い、ヒミルコはカルタゴ占領地を引き続きカルタゴの支配下に置くという条件の下、セリヌス、テルマエ、アクラガス、ゲラおよびカマリナと講和した。この時点がシケリアにおけるカルタゴ勢力の絶頂期であった。
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[[File:Gastraphetes - Biton's catapult - catapulta di Bitone.jpg|thumb|モティア包囲戦で使われたカタパルト]]
 
紀元前398年までに、ディオニュシオスは勢力を再建して平和条約を破り、モティア包囲戦([[:en:Siege of Motya|en]])を開始、これを占領した。ヒミルコは直ちに遠征軍を派遣し、モティアを奪回しただけでなくメッセネ(紀元前5世紀の初めにザンクルから改名、現在の[[メッシーナ]])も占領した。カタナ(現在の[[カターニア]])沖の海戦([[:en:Battle of Catana (397 BC)|en]])でもカルタゴ軍はシュラクサイ軍に大勝し、その後シュラクサイ包囲戦([[:en:Siege of Syracuse (397 BC)|en]])を開始した。紀元前397年中はカルタゴ軍が優勢であったが、紀元前396年に再び伝染病が蔓延し、結果カルタゴ軍は崩壊した。この敗北で新たに占領した地域を失ってしまったが、シケリア西部とエリミ人地域は確保した。講和条約は結ばれなかった。
 
ディオニュシオスは再び軍を再建し、[[紀元前396年]]にソルスを破壊した。紀元前396年から393年にかけてはタウロメニウム(現在の[[タオルミーナ]])包囲戦([[:en:Siege of Tauromenium (394 BC)|en]])を含み、シケリア東部で活動した。この間、カルタゴはアフリカでの反乱鎮圧に忙殺されていた。紀元前393年、ヒミルコの後継者となったマゴはメッセネを攻撃したが、アバカエヌムの戦い([[:en:Battle of Abacaenum|en]])でディオニュシオスに敗北した。カルタゴ本国からの増援を受け、マゴはシケリア中央部に対する遠征を開始したが、クリサス川の戦い([[:en:Battle of Chrysas|en]])で敗北した。しかしディオニュシオス自身も困難に直面していたため、おおむね現状の勢力圏を認める講和条約が結ばれた。