「幕藩体制」の版間の差分

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[[江戸幕府]]を全ての[[武士]]の頂点とし、最高の統治機関としながらも、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した統治機構(藩)を形成していることと、[[米]]などを現物で納めさせて[[年貢]]とする[[石高制]]をその基礎に置いていることが特徴である。諸大名を[[親藩]]、[[譜代大名]]、[[外様大名]]に分け、[[参勤交代]]や[[改易]]によってこれを統制した。また、職分の区分けによって、武士を一部の権利を持つ階級に位置づけた(もっとも、「士農工商」という言葉は当時の階級を正確に表してはいないと指摘されている)。
 
石高制については[[豊臣政権]]によって[[兵農分離]]が行われ、[[太閤検地]]によって徐々に形成され、続く[[江戸幕府]]の成立後に初代将軍[[徳川家康]]以降、2代[[徳川秀忠]]、3代[[徳川家光]]の時代に、[[鎖国]]体制や[[知行制]]、[[村請制]]などが確立、更に[[武家諸法度]]や[[朝廷]]に対する[[禁中並公家諸法度]]、寺社へのに対する[[諸社禰宜神主法度]]・[[諸宗寺院法度]]・[[寺院諸法度]]といった統制なども行われていった。
 
古くは「江戸時代=幕藩体制」であり、当然江戸幕府が成立した[[1603年]]が幕藩体制の始期と考えられてきたが、[[1960年代]]に[[安良城盛昭]]が太閤検地による[[荘園制]]の解体が中世と近世の統治体制を分ける画期と考え、豊臣政権が日本全国を統一した[[1590年]]を幕藩体制の始期とする考えを打ち出し、論争を呼んだ([[太閤検地論争]])。このため、現在では1590年をもって幕藩体制の始期とする説が有力ではあるが、1590年・1603年どちらを採用した場合でも、その年に幕藩体制が完成したものではなく、最終的な完成は[[17世紀]]中期以後であったと考えられている。