「59式戦車」の版間の差分

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== 開発 ==
1949年の中華人民共和国建国の時点で中国人民解放軍は375両の戦車を保有していたが、それらは旧日本軍の[[95式軽戦車]][[九七式中戦車|97式/97式改]]中戦車などの日本製戦車、[[第二次国共内戦]]での[[国民政府軍]]から捕獲した米国製の[[M4中戦車]][[M3軽戦車]]などであり、その多くが旧式化していた。当時の中国では[[中華民国]]時代を通じて戦車の国産化は行われておらず、全ての戦車は外国からの輸入に頼っていた状況であった。その後の[[アメリカ]]と[[ソビエト連邦]]の間で対立が深まり、世界を二分する[[冷戦]]体制となると、国防工業の設立と兵器の自給体制の確立が早急に求められることになり、社会主義諸国の盟主であるソビエト連邦の全面的な支援を要請することで、[[1950年代]]から[[T-34|T-34/85]]中戦車、[[IS-2]]重戦車、[[SU-76]]・[[ISU-152]]・[[SU-100]]各自走砲などの装甲戦闘車両が供与され、従来の雑多な旧式車両の更新を行うとともに、人材の育成も行われた。これにより、本格的な装甲部隊の編成が行なえるようようになった。
 
その後、中国は戦車の自給体制の確立を目指すこととなり、1952年の中央軍事委員会兵工委員会において「関于兵工建設問題的報告」が作成され、国防産業建設に関する5ヵ年計画が提示された。その中には戦車と戦車のエンジンの国産化の計画も立案されており、1953年にはソビエト連邦が中国の経済建設に関する広範な支援を行う「関于蘇聯政府援助中国政府発展中国国民経済的協定」が締結され、その中に戦車・エンジン・砲弾・光学照準装置など戦車生産に必要とされる各種工業の施設の建設も含まれていた。当時の中国の工業地帯は東北部と沿海部にあったが、海上からの攻撃を受けやすく国防上のリスクを抱えていることから、内陸部の[[内モンゴル自治区]]の包頭(パオトウ)に製鉄工場を中心とした機械製造業・化学産業・産業研究施設などを配置した総合コンビナートが建設された。これは、内陸部に総力戦を支える重工業基地を建設することを最大の目的としていたが、内陸部の資源地帯と産業をリンクさせて効率的に重工業を発展させて、経済的に立ち遅れた内陸部の振興の核となることも期待されていた。その中に戦車製造工場の第617工場があり、工場建設と平行して、1955年11月にはT-54Aの実物が中国に供給されており、1956年にはT-54A戦車の[[ライセンス生産]]権が中国に譲渡され、設計図や生産に必要な各種資料が引き渡された。エンジンの生産は[[山西省]]、[[トランスミッション]]や光学照準装置等の精密部品の生産は[[上海]]でされることになり、ソ連の技術者の支援を受けながら他の各地の工場でも部品が生産され、これらは第617工場に送られた後に最終的な組み立てが行われた。
 
当初は第617工場にてソ連から供与された部品を組み立てる[[ノックダウン生産]]で[[1958年]]から生産が始まったが、その後に国内で生された部品の使用率を次第に高めて行き、1961年までにほとんどを砲塔・装甲板・戦車砲・弾薬も内で生された部品より生産出来化できるようになったが正式照準装置や夜間暗視装置などの精密機器や装甲板の生産59式戦車と必要な[[ニッケル]]等の[[レアメタル]]に関して採用されは、中国とソ連の路線対立が深刻化す1964年頃まではソ連からの輸入に頼っていた
 
== 車体 ==
59式戦車はT-54Aのコピーと同じく、車体は溶接鋼板、砲塔は[[鋳造]]鋼板製造されていが、操縦席上部のハッチに、2基の[[ペリスコープ]]が設置されており、その内の1基には夜間操縦用に赤外線暗視装置が標準装備されている、T-54Aで標準装備されるようになった車長や砲手用の暗視装置は搭載されなかったため、夜間戦闘は非常に困難であった。砲塔の旋回は電気モーターを使用しており、砲塔の最大旋回速度は毎秒10度である。砲塔上部の装填手用ハッチの手前に換気用ベンチレーターのドーム型カバーが設けられ、これは[[88式戦車]]まで引き継がれる中国戦車の特徴の1つとなっており、操縦手座席の直後にある車体底部には脱出口が設けられている。装甲の厚さに関してはオリジナルのT-54Aと同である。
 
== 武装 ==